書写の片づけができなかった私の話

 木曜日の5,6時間目に書写の授業をした。3年生で2回目の書写の授業だ。新しい書写セットにまだまだ嬉しそうな顔をしている子供たちが、楽しそうに筆を操っている。

 今日の授業は横画の練習。めあては始筆に気をつけながら、横画を書くこと。指導はするが、筆の角度が寝てしまったり、真横に線を引っ張ったり、まだまだ未熟なところばかりだ。

 子供にとって、筆の上げ下げの感覚というのは分かりにくいものらしい。かく言う私も大学生になって、教員用の授業を受けた時に初めて習得したようなものだ。かなり意識しないと難しいものなのだろう。

 上げ下げの感覚、文字の太さに繋がる感覚だが、なかなか上手くいかない。線が細くなってしまう子供には、私が手をとって一緒に書いてみる。子供は自分の前に現れる太い線に驚きと感動を覚える。その後、自分でも書いてみるが思う通りにはいかない。それでいい。これから成長していくのだから。

 作品として仕上げるので名前も書くことになる。2回目の授業で名前の指導には至らない。もちろん、名前を指導してから文字の練習をしてもいいのだが、それは枝葉を行くような気がするので、私の好みではない。目の前に大きな文字を書きたがっている子供達がいるのだから、まずは大きく文字を書かせてあげたい。結果として、大した指導をせずに名前を書くことになるのだが、それはそれで記念になるから良いだろう。

 授業の際には、「先生が指導をしないで書いた、みんなの本当に初めての名前」を書くことになるとして話す。おそらく上手くは書けないことも先に話しておく。しかし子供達もだんだんと私への理解が進んできたようで、「それってつまり、『これからの成長と比べて楽しめ』ってことでしょ?」と返してくる。1か月と少しでこれだけの返しをしてくるのだから、素晴らしい。

 

 少し話がずれるが、教師の役割の1つは子供を成長させることだ。そのために教師は様々な手段を講じる。指導によって子供が成長したことを見られるのは、教師の何よりの楽しみだろう。しかし子供の成長が自分の指導によるものなのか、子供の自然な発育による効果なのかの判別は非常に難しい。私は、子供の成長の8割くらいは子供自身の自然成長の影響だと思っている。

 だからこそ子供自身が自分の成長を実感できる仕組みやフィードバックをする必要があると考えている。自然成長でも構わない。自身が実感できることが大切なのではないか。

 

 出来上がった作品だが、私の予想を上回る素晴らしい出来であった。巧みな始筆。力強く、なめらかな送筆。整った終筆。期待していた以上の作品が続々と仕上がる。

 名前も面白い。私が指導したことと言えば、小筆を使うこと、書き方、書く場所くらいだ。子供たちは自分なりに工夫しながら名前を書いてくる。「上手くいかなかった」と嬉しそうに話してくるので、「それでいいんだよ」と返す時間を楽しむ。上手くいかないことが楽しいのは良いことだ。

 書写の作品は面白い。出来上がった作品には、個性がよく出る。同じ文字を書いているからこそ、比べてみると、とても分かりやすい。大きな文字を書く子。細い点画になる子。文字がかすれる子。バランスが偏る子。文字には性格が出る。私が普段感じている性格とは違った性格も見える。心の底ではどんな性格が隠れているのか、毛筆には、そんなことが少し現れてくる気がする。

 

 作品が仕上がれば、後は道具の片づけである。仕上がった子から順次片づけを始める。最初の授業で指導した通り、筆や硯の墨を処理し、片づけていく。まだまだ覚えきれていないところもあるが、概ね順調に進んでいく。順調でない部分は友達に聞きたり、助けてもらったりしながら、片づけていく。上手なものだ。

 

 そう。上手なものだ。

 子供が書写の片づけをしていると、私はいつも思う。子供たちはなんと手際よく片付けていくのだろう。授業終了5分前には殆どの子が片づけを終えることができた。タイムマネジメントはまあまあ良いのではないだろうか。残りは1人だ。

 その子は道具に手をかけ、片づけている。しかしなかなか進まない。不真面目にやっている様子はない。手に取った筆をふき取り、巻いていく。巻いた筆を机に置く。そこでまず下敷きを片づけたほうが良いことに気が付く。巻いた筆をどかす。下敷きをとる。書写バックはどこか探す。見付けたバックの中を見るが、下敷きは上手く入らない。中を整理する…

 

 君なんだ。君なんだよ。私は君だった。

 私は書写の時間が好きではなかった。字が上手く書けないこともあったが、それ以上に準備や片づけが上手くできなかった。私にとって書写の片づけは煩雑の極みであった。今やるべきことは何となく分かるが、なかなか進まない。自分では不真面目にやっているつもりはない。しかし進まない。気が付くと周りは何となく片づけを終えている。

 教師になって分かった。やはり私は不器用だったのだ。多くの子供たちは煩雑ながらも、片づけを終えていく。終わらないのは私や君のような人なのだ。何故終わらないのだろう。いつも不思議に思っていた。外から見ると分かる。道具を右から左へ動かしているだけで、何も進んでいないのだ。手を動かした分だけ片づけたような気がするだけに、遅々として進まない状況に湿度の高い部屋にいるようなねっとりとした不快感だけが募っていく。君は今、そんなに感じていないようだが、心の底に溜まった澱がいつか君を苛立たせるかもしれない。

 

 私は少し特性が強い人間だ。もう少し言うと自閉傾向が高めだ。視野が狭い。色々なことを考えすぎたり、逆にのめりこみすぎたりしてしまうこともある。

 私は不器用だ。効率性を重んじるようなことを言う割に私は段取りが良くない。仕事では常にバタバタとしている。机の上は片づける習慣をつけているが、片づけが中心になり、仕事が進まない。周りを見て、なんと速やかに仕事をしているのかといつも思っている。

 

 道具が片付かない君は何をしてほしいのか。道具を片づけられなかった私は何をしてほしかったのか。助けてほしかったような気もする。でも助けはいらなかったような気もする。君を見ていても、やはり助けがほしいようには見えない。時間が欲しかったかもしれない。でも時間を意識して動いていたわけではなかった。手順の説明かな。それが一番近いような気もする。でも声をかけてほしいわけではなかった。自分でやるものだ。できなくはないのだから。今考えると、それが私のプライドだったのかもしれない。

 君はどうだろうか。声をかけてほしいのだろうか。それとも自分でやりたいのだろうか。手順書くらいは作ろうと思う。他の子にも良いだろうし。君も見るだろうか。

 私はまだ、君へどう声をかけていいか分からない。