ずるくなった気がする。
それが年齢のせいなのか。経験のせいなのか。
どちらかは分からないが、とにかくずるくなった気がする。
或いは自分のしたことがずるいと言われるものなのかすら定かではない。
もしかしたら適切なのかもしれない。
しかし自分の中で、その自分の行動を形容するならばまっさきに「ずるい」という言葉が浮かんだ。
だからやっぱり自分はずるくなったのだと思う。
先日、ある子が私のところに話にきた。
聞いてみると、同じクラスのAさんが音楽の時間に真面目に授業を受けていなかったとのことであった。
Aさんといえばうちのクラスでは、なかなかパンチが効いた子である。
周りから少し外れた行動をすることもある。
音楽の時間の話を聞いても、正直私には「あぁ、そういう行動をとるのはあり得るだろうな」くらいにしか思わなかった。
翻って、報告に来た子はとても真面目な性格の子である。
Aさんの行動を見て、これはよろしくないと思い、私のところに来たのであろう。
さてどうしたものか。迷うところである。
Aさんの行動を見れば、周囲から完全に外れている。
これを叱りつけるのはごく簡単だ。Aさんを呼んできて、今後そのような行動をとらないことと話をすればよい。
報告に来た子はおそらく納得するだろう。しかし、Aさんの行動が今後変容するかといえば、可能性は低い。
つまり言ったところで徒労になるのが、目に見えている。
むしろ私とAさんの距離がやや遠くなる分、損のほうが大きい。
かといって、「彼は特別だからいい」ということも言えない。
教師は子供の前で不公平であってはいけない。
個に応じた対応はする。しかし不公平感があってはいけない。
不公平に対応するということは、教師の信頼を落とす行為だ。
普通の基準に照らせば、Aさんは叱られて然るべきである。
ただそれはAさんには意味がない。
Aさんに応じた叱り方をしなくてはならず、しかしそれでは報告に来た子が納得しないかもしれない。
さて、どうしてものか。
昔はこのジレンマにしばしば悩まされた。
いや、悩まされているという意味では今も同じだ。
結局、どちらも消化不良となるような中途半端な指導をしていた気がする。
結局、考えた末に私が出した結論はこうだ。
「あなたは、Aさんにどうしてほしいの?」
その子は少し考えた後に、
「やっぱりちゃんと授業を受けたほうがいい」と言った。
なるほど。それは確かだ。
そこで普段のAさんの様子を改めて共有してみた。
Aさんなりに真面目にやっているが、Aさんの特性上やはり周囲と同じレベルで行うのは難しいと。
その子もAさんの普段の様子を思い出すと、私の話に納得していた。
私自身もAさんの態度は良いとは思っていない。
しかし現実として難しい部分はある。
今回の件はAさんと話すが、もう少し長い目でも見てほしいと伝えた。
色々と話して、その子は納得して去っていった。
その後、Aさんと話し、今回の件のことを伝えた。
やはり本人なりには、それなりにやっていたつもりではあった。
周囲の目とのギャップは常々伝えていた。
それを意識できないと、おそらく今後Aさん自身が不利益を被ることになると思うからだ。
1学期から話したこともあり、少しずつ変容しているところはある。
先は長いが、道は続いていそうである。
さて一連の指導を終えて、やはり自分はずるかったなと思う。
結局のところ、不公平を上手く言って、相手に飲ませたのである。
ではこれが間違っていたかと思えば、そうは思わない。
クラスという共同体を運営する上で、ある程度適切な指導であったと思っている。
昔は子供から話を聞いたら、全て自分が関わり解決しなければいけないと思っていた。
最近では、そんな強迫観念めいたものはどこかに置いてきてしまった。
大切なのは子供達の納得感だ。
同じクラスで関係性を作るのは、私ではない。
彼らが相互に作っていかなければいけない。
相互に作るのであれば、相手を理解しなければいけない。
私がすべきことは、相互理解を促すことだ。問題を積極的に解決することではない。
後日、その子にAさんの様子を聞いてみた。
「この前は○○していたから、いいんじゃないかな?」とのこと。
多分これ以上は聞く必要は無いと思う。