- 「説明会は時間の無駄」
- 今日の「お土産」は…?
- 何が「お土産」になる?
- 「必要」と「知っている」は全く別
- 保護者も教育する時代
- 結局オンラインでいいのでは?
- 世はまさに大音読時代
- 説明会に来させる負荷
- オンライン化は諦めてはいけない
「説明会は時間の無駄」
最近、職場の後輩が「新入生保護者説明会」に向けて資料の作成をしている。
「新入生保護者説明会」は文字の通り、来年度から入学する児童の保護者に向けての説明会である。
小学校に入るまでにする手続きや準備しておく物などについて説明をする。
入学に際して必要なものは色々とあり、資料も多岐に渡る。そのため資料の準備は思いのほか面倒な作業だ。
今週の終わりが説明会なので、後輩の仕事もいよいよピークを迎えるころである。
ところでTwitterなどを見ていると、この説明会に関しては様々な意見がある。
よく見かけるのは資料を見れば分かることだから、行くだけ時間の無駄というものである。
今年などはコロナの関係で資料を手渡しで終わりという所もあり、そういう体験をしてしまうと今までの説明会は何だったのかと思わざるえないところがある。
資料は学校ホームページに掲示する。説明したいことはYoutubeにでもあげとく。それでも成立するだろう。
この説明会を、忙しい保護者達をわざわざ呼んで開催することの意義が問われている。
今日の「お土産」は…?
この説明会以外にも、学校はしばしば保護者を呼ぶことがある。
そう。保護者会である。
年間で4,5回保護者を呼ぶことになるが、吉野はとにかく保護者会が苦手だ。
何を話せば良いか分からないのだ。
資料を説明するのだが、説明している自分が一番「読めばわかるよね」と思っているのだから仕様もない。
そのため吉野が保護者会の時に特に意識していることがある。
それは「お土産」をもたせることである。
とにかく保護者に「あ、保護者会に来て良かった」と欠片でも思って帰ってもらうようにしている。
そんなことを考えて何年も経ち、行きついた先は子供の動画だ。
普段の授業の様子を撮影しておき、保護者会で流す。
保護者も参観などで子供の様子を見ているが、もちろん参観と普段の姿は違う。
なので学校での素の子どもの状態が見られるのだ。
保護者は楽しいし、時間もつぶせるしで一石二鳥である。
これまでで一番効果がある方法だと思っている。
因みに動画の編集などはしていないが、流す動画の選別は当然している。
子供がほどほど素の姿で、きゃいきゃい楽しそうに学習をしており、担任もフレンドリーな様子で、保護者に安心感をもたせるような動画だけを流している。当たり前だろ。
何が「お土産」になる?
では新入生への説明会での「お土産」は何になるのだろうか。
新入生保護者説明会は、あくまで説明会であり、必要な情報を十分に伝えることが目的である。
そのため入学までの事務的な話ばかりになるし、それを外すことは難しい。
問題は事務的な話ほど資料を見ればよいという結果になることだ。
とはいえ、小粋なジョークを混ぜる場でもない。講演会でも無いしね。
つまり単純に有用な話をする必要がある。
「必要」と「知っている」は全く別
じゃあ単純に有用な話とは何だろうか。
非常にハードルが高い気がするが。
吉野が思うに、例えば子供が学校で貰ってくるプリントの整理術とかではないだろうか。
学校は紙社会だ。今後デジタルが普及し、紙は少なくなってくるだろう。
しかし紙が無くなることは無いし、情報が減ることも無い。
それらをしっかりと整理する必要がある。
それに付随して、子供が家で手紙を出せるようになるために躾け方とか、宿題をするために習慣作りの方法とか、そういった情報を提供するのが良いのではないか。
世の中の人は、教員が思うほど教育に関して知らないことが多い。
教員をやっていて、ついつい勘違いしてしまうのだが、子供を産めば確かに教育者になるが、教育者が教育に詳しいかは全く別問題だということだ。
教員は当然UDへの視点などをもっていたり、発達段階や子供の認知などを理解していたりするが、保護者がみんな、そういう視点や知識をもっているわけではない。
特に物の管理方法などは教えられることも無いので、独学でやっている人が殆どなのではないだろうか。
そのため「子どもが学校に通うと家庭で起こることFAQ」みたいなものを伝えるのが一番有用なのではないかと思う。
保護者も教育する時代
この職業をやっていると、課題が見られる児童の保護者と面談をすることがある。
その時に「あ、この保護者にはもっと細かく話をしてケアしてあげないと、子供への関わり方は変わらないな」と思うケースがよくある。
昔、クラスに物の管理を始め日常生活能力がボロボロの子がいた。トラブルも多くなり、いよいよ困ってきた。
その時に以前にその子を担任をしていた先輩から「吉野さん、あの家庭は親を呼んで、親の定期メンテナンスしないとダメだよ」と言われた。
トラブルが大きくなり保護者に話す段階になって、ようやく親から子への目が光り、子供が改善されるが、それがだんだんと杜撰なって元の状態になるのだと。
課題を抱える子はそもそも保護者の教育能力が低い場合が往々にしてある。
教育能力が低いから、課題が発露すると言ってもいいかもしれない。
現代の子どもは、自分に関わってくれる人間が極めて限定的である。親と教員、あと少しといったところだ。
そのため教員もそうだが、親の教育力が大きな比重を占めてくる。
そのため子供を変えたければ、親もセットで教育をする必要がある。
正直に言ってしまうと面倒臭いことこの上ないが、子供のためには仕方がない。
結局オンラインでいいのでは?
前述のような説明も加えると、保護者としては新しい知見が得らえる可能性が高いので、来る意味が増えるだろう。
しかしその内容も資料化してしまえば、結局、説明会に来る必要は無いのではと言われてしまうと、全くその通りである。
こうなるといよいよ堂々巡りの様相を呈してくるが、実は資料化には根本的な問題がある。
それは資料化した時に保護者がそれらをきっちりと読み、内容を理解し、要点を把握していくれるかということである。
世はまさに大音読時代
「資料を配れば読んでくれる」と思っているならば、それは幻想だ。
意識が高い人材に囲まれた場所であるならまだしも、教員に関してはそれは当てはまらない。
吉野はここ数年、何か行事の委員長をしている。
行事というのは「例年通り」や「暗黙の了解」で進んでいる部分があったり、属人化している業務があったりして、資料が存在しない業務というのが多々ある。
吉野はそういった明文化されていない状態が許せず、委員長をやるたびに既存の資料を整頓し、足りないと思われる部分を大量に補充してきた。
そのため例年通りだけど資料的に増えた点や変更点なども多くなる。
全て話すと大変なので、職員会議で提案する時は前年度までと同じ部分は飛ばし、加筆や変更した部分だけを説明するようにした。
その結果どうなったかと言えば、「アレはどうした」「これはどうなっている」と事あるごとに質問されるようになったのだ。
質問の度に丁寧に答えるようにしていたが、これらの解答の9割は「それ、提案資料に載ってます」で済むものであった。
資料になっているからといって、読んでくれるとは限らない。
というか、全然読んでくれないのだ。
職員会議が大音読大会と呼ばれてしまう背景には、資料を読まない人の存在があるだろう。
まぁ資料をきっちり揃えれば大丈夫と考えるのは、ちょっと”人”への理解が足りないと言わざる得ない
説明会に来させる負荷
その点、説明会に来てもらうと、最低限押さえてほしい情報をぼんやりとでも伝えることができる。
少なくとも資料の必ず読むべき場所と読み飛ばして良さそうな場所の確認ができる。
資料を貰い必要な部分を理解して読める優秀な人に説明会は不要だろう。ただ保護者の中にはそうではない人も混ざっている。
伝達する側からすると、資料を渡してハイ終わりという不確定要素が多いやり方より、最低ラインが保証される説明会というやり方の方が非効率ではあるが、ベターな選択となる。
書いていて思ったのが、これってスゲー「公立学校の教育」っぽいよね。皮肉だな。
オンライン化は諦めてはいけない
ベターかもしれないが、音読大会に価値があるかと言ったら、低いことは否めない。
必要性が低ければ、やはり無駄と分類して、辞めることは検討すべきだ。
また逆に考えるならば、説明会を開いているから、資料を真面目に読もうとしない人も現れるだろう。
説明会という「甘やかし」をせずに資料だけボンと渡されたら、流石に読み始めるかもしれない。
この点は…体感的には半々だとは思うが。
まぁ先ほど「親にも教育が必要な場合がある」と言ったばかりだから、これも教育になるかな。