指導案を作る

先日、管理職の授業観察があったので、指導案を作った。

授業観察の時にはいつも指導案を作っている。

今回は異動初の観察だったので多少緊張していたこともあり、少し細かく作った。

 

指導案とは言ったが、正確には略案である。

めあてと本時の流れだけが書いてある、ごくごく簡単なものだ。

 

授業観察や公開の時には、この略案をよく作る。普段の授業でも時折作ることがある。

自分の感覚としては、とても力を入れるほどではないが、いつもよりしっかりやりたい授業の時や少し緊張する授業の時に作成をしている。

つまり「あまり外したくない授業」の時だ。

 

とはいえ、最近はこの略案もあまり作っていない。

一番多く作っていたのは、2,3年前の頃だ。あの頃は熱心に色々な授業を試していた。

教材開発のための実践もたくさんやっていた頃なので、自然と増えていった。

 

略案を作っておくと便利なことがある。

前述の通り、この略案を作る時は自分の中で「外したくない授業」の時なので、逆を言えば何か特別なことをしている時に作っていることが多い。

そのため自分の珍妙な実践の宝庫になっているのだ。

 

少し紹介してみよう。

光村の国語の教科書には季節の教材がある。「春の言葉」とかそんな感じの単元だ。

 

私はこの教材をどう扱ったらよいか、いつも悩んでいた。

指導書に授業の流れが書いてあるものの、その通りに行っても上手くいく気がしない。

今の自分ならば、指導書の流れ通りでもある程度はできるだろう。しかし多分ある程度だ。

 

悩んだ私が出した結論は、この単元では俳句を作ることにした。

季節の言葉を使って、なおかつ言語活動ができるものといったら俳句だ。以来、私はこの教材では俳句を作っている。

 

そして季節教材ということは、4回は似たような授業ができる。

そこでこの教材群を帯単元として設定することにした。

年間で4回も俳句を作ると年度末にはそれなりの作品になるから面白い。

 

こういった記録が略案として残っているのだ。

たまに見返すと自分でも忘れていた面白い実践もしている。

あと同僚に資料としてすぐに実践内容を紹介できるから便利でもある。

 

略案はほどほど作るが、しっかりした指導案を作ったのは昨年の研究授業が最後だ。

校内研究なので学年で作成した。自分だけでしっかりとして指導案を作ったのは、もう記憶にも残っていない。

 

Twitterを覗いていると指導案の話はたまに出てくる。

時間ばかりがかかって無駄だという話題が多い。

その分の時間を、内容を充実させることに使うべきという意見もある。

 

確かに指導案の作成にはある程度時間がかかる。

作成の最中に様々な手が入り、内容が変わる時もしばしばある。

しかし私はそれが無駄だと思わない。

 

指導案には書く内容に無駄は無い。

指導上、必要なこと以外は書かないからだ。

指導案の作成だけで考えるなら、確かに時間がかかり、無駄に思える。

しかし指導案を作成している時というのは、授業を練り上げている時間でもある。

むしろ授業を練り上げている時間があるのに、それが指導案に反映されない方がおかしいのだ。

 

指導案を作るには、授業を練り上げる。

授業を練り上げたなら、指導案が修正される。

指導案作りとはそういう物ではないか。

調整で帰る

今日は調整を使って早めに帰ってみた。

 

他の職種でもあるのだろうが、もしかしたらこの職だけのことかもしれないので、一応説明をしておこう。

調整とは勤務時間を前にずらした分、後ろの定時が早くなるというものだ。

 

今日は土曜日にやるはずであったミニ運動会のようなものがあった。

本来は土曜日にやる予定だったが、台風接近による大雨で中止になった。

10月10日に雨が降るなんて、観測史上でも珍しいのではないだろうか。

 

そのため土曜の運動会は中止。月曜日に延期となった。

しかし延期となったからとはいえ、月曜の準備が土曜日にできるわけではない。

日曜日に出勤するわけにもいかない。

ということで、月曜の朝に招集がかけられたのだ。

 

普段の勤務開始は8時15分。

可能であれば、1時間早く来てほしいとのことだったので、今日は7時15分から勤務。

私はいつも割と早い電車で行くので、体感としては少し早めに出るくらいの感覚であった。

 

1時間の調整なので、勤務終了は15時45分。

こうなると休憩時間がどこになるかが甚だ疑問が残るが、今回は深く考えないとする。

今度、副に聞いてみようか。答えにくいだろうなぁ。

 

そんなわけでいつもより早く帰ることにしたが、なかなか帰りにくいものだ。

調整が効くからと言って、別に仕事の量が減るわけではない。前倒しでできているわけでもない。

この職業の一番辛いところは、仕事の終わりが無いことだ。探そうと思えば永遠に仕事ができてしまう。

周りも仕事をしている中だと、「何か漏れがないかな…?」などと不安になって、結局帰れなかったりする。

 

が、今日は調整があると聞いたときから、「せっかくなら調整で帰ってみよう!」と決めていたので、覚悟をもって帰ってみた。

職員室を抜ける瞬間が一番緊張した。

 

実際に帰ってみると、実は数人同じように帰っている人がいたようで、駅で会うことができた。

なんだ大丈夫じゃないかと思いつつ、一緒に帰る。

 

最寄り駅まで来ると、もう緊張感のようなものもなく、早く帰れたことの喜びしか無い。

この時間だと学生が多いことに改めて気がつく。

当たり前だが、私と彼らは生活時間が随分違うのだなと思わされる。

 

最寄り駅構内で興味深いものを見た。

ベンチで座っているおじさんたちである。皆、スーツを来てのんびりと座っている。

彼らも勤務が終わったのだろうか。誰かと待ち合わせている感じではない。

なぜみんな、ベンチに座っているのだろうか。社会はわからないことばかりだ。

 

調整で帰った夕方はいつもと違う風景が見られる。

アフター5をじっくりと楽しむのも良いものだ。

タブレット山脈

タブレットはどうも苦手だ。

 

便利なのは分かっている。買ったら使うであろうことも分かっている。しかしどうしても買う気にはなれない。

これは私の勝手な感性であるが、タブレットは情報を見るタイプのデバイスだと思っている。作ることには向いていない。

逆に何かを作るデバイスはパソコンだ。そのため文章を書くことが多かった私はパソコンをずっと使い続けてきた。

 

タブレットにパソコン、これらにもう一つ並ぶデバイスといえばスマホだ。

携帯電話の延長として現れたが、もはやその領域は超えている。

 

私の感覚では、スマホタブレットは使い方がとても被っている感じがするのだ。

最近、ipadを触り始めたため、その感覚は払拭され始めたが、それでも「スマホがあるなら、タブレットは…」という思いが拭えない。

 

さて、それとは別に私には悩みがあった。

それは「町中でふと思ったことを書き留めるデバイスがほしい」ということだ。

カフェなどで何となく駄文を書きたくなった時に受け皿になってくれるデバイスだ。

 

いつも持ち歩いているスマホでいいのではないかと思われるが、スマホではいけない。

私の思考速度に対して、フリック入力が遅すぎるのだ。

 

フリック入力ではキーボードほど速度が出ない。

最近の大学生は論文をフリック入力で済ませる人もいると聞いたときには非常に驚いだものだ。よくもまぁそんな不便な方法で文章を書けるものだと。

とにもかくにも、キーボードがないスマホはだめだ。

 

ここでいよいよタブレットの購入が見え始めた。

タブレットには一応、キーボードらしき機能がある。あれを使えば、自分が思うような速度で文章を書けるかもしれない。スマホにも同様の機能があるのは知っているが、スマホでは小さすぎる。

 

理想を言えば、ポメラのようなものが良いのだ。

キーボードが付いていて、小さくて、文章が打てるもの。

しかしポメラを買うならば、タブレットにするであろう。

 

ここで一つの考えが私をよぎる。

スマホポメラのようにしてしまえばよいのではないか?

 

じゃあキーボードは?

Bluetoothキーボードがあるぞ。

スマホを支えられるタイプのBluetoothキーボードがあれば問題解決である。

そこまで思い至ったところで、家電量販店に足を向け、目当ての商品を探し当てる。

 

実はこの文章もスマホとキーボードで書かれているものだ。

キーボードの重みがやや荷物の感を強くしているが、私が思っていた以上に使い勝手は良い。

しばらくはこのスタイルで文章を書こうと思う。

 

タブレットの購入は遠い。

ずるくなった私

ずるくなった気がする。

それが年齢のせいなのか。経験のせいなのか。

どちらかは分からないが、とにかくずるくなった気がする。

 

或いは自分のしたことがずるいと言われるものなのかすら定かではない。

もしかしたら適切なのかもしれない。

しかし自分の中で、その自分の行動を形容するならばまっさきに「ずるい」という言葉が浮かんだ。

だからやっぱり自分はずるくなったのだと思う。

 

先日、ある子が私のところに話にきた。

聞いてみると、同じクラスのAさんが音楽の時間に真面目に授業を受けていなかったとのことであった。

 

Aさんといえばうちのクラスでは、なかなかパンチが効いた子である。

周りから少し外れた行動をすることもある。

音楽の時間の話を聞いても、正直私には「あぁ、そういう行動をとるのはあり得るだろうな」くらいにしか思わなかった。

 

翻って、報告に来た子はとても真面目な性格の子である。

Aさんの行動を見て、これはよろしくないと思い、私のところに来たのであろう。

 

さてどうしたものか。迷うところである。

 

Aさんの行動を見れば、周囲から完全に外れている。

これを叱りつけるのはごく簡単だ。Aさんを呼んできて、今後そのような行動をとらないことと話をすればよい。

報告に来た子はおそらく納得するだろう。しかし、Aさんの行動が今後変容するかといえば、可能性は低い。

つまり言ったところで徒労になるのが、目に見えている。

むしろ私とAさんの距離がやや遠くなる分、損のほうが大きい。

 

かといって、「彼は特別だからいい」ということも言えない。

教師は子供の前で不公平であってはいけない。

個に応じた対応はする。しかし不公平感があってはいけない。

不公平に対応するということは、教師の信頼を落とす行為だ。

 

普通の基準に照らせば、Aさんは叱られて然るべきである。

ただそれはAさんには意味がない。

Aさんに応じた叱り方をしなくてはならず、しかしそれでは報告に来た子が納得しないかもしれない。

 

さて、どうしてものか。

 

昔はこのジレンマにしばしば悩まされた。

いや、悩まされているという意味では今も同じだ。

結局、どちらも消化不良となるような中途半端な指導をしていた気がする。

 

結局、考えた末に私が出した結論はこうだ。

「あなたは、Aさんにどうしてほしいの?」

 

その子は少し考えた後に、

「やっぱりちゃんと授業を受けたほうがいい」と言った。

なるほど。それは確かだ。

 

そこで普段のAさんの様子を改めて共有してみた。

Aさんなりに真面目にやっているが、Aさんの特性上やはり周囲と同じレベルで行うのは難しいと。

その子もAさんの普段の様子を思い出すと、私の話に納得していた。

 

私自身もAさんの態度は良いとは思っていない。

しかし現実として難しい部分はある。

今回の件はAさんと話すが、もう少し長い目でも見てほしいと伝えた。

色々と話して、その子は納得して去っていった。

 

その後、Aさんと話し、今回の件のことを伝えた。

やはり本人なりには、それなりにやっていたつもりではあった。

周囲の目とのギャップは常々伝えていた。

それを意識できないと、おそらく今後Aさん自身が不利益を被ることになると思うからだ。

1学期から話したこともあり、少しずつ変容しているところはある。

先は長いが、道は続いていそうである。

 

さて一連の指導を終えて、やはり自分はずるかったなと思う。

結局のところ、不公平を上手く言って、相手に飲ませたのである。

 

ではこれが間違っていたかと思えば、そうは思わない。

クラスという共同体を運営する上で、ある程度適切な指導であったと思っている。

 

昔は子供から話を聞いたら、全て自分が関わり解決しなければいけないと思っていた。

最近では、そんな強迫観念めいたものはどこかに置いてきてしまった。

 

大切なのは子供達の納得感だ。

同じクラスで関係性を作るのは、私ではない。

彼らが相互に作っていかなければいけない。

 

相互に作るのであれば、相手を理解しなければいけない。

私がすべきことは、相互理解を促すことだ。問題を積極的に解決することではない。

 

後日、その子にAさんの様子を聞いてみた。

「この前は○○していたから、いいんじゃないかな?」とのこと。

多分これ以上は聞く必要は無いと思う。

バズったツイートはどれくらいで収束するのか調べてみた

1 はじめに

少し前に自分のツイートがバズった。

 

街を歩いていて何気なく撮った写真だ。

「お、ちょっと面白いな」くらいの気分でツイートしたので、まさかこんなにRTされるとは思っていないかった。

数日間は「通知が止まらない」状態になり、自分のリプライメッセージの部分は使い物にならなくなった。

貴重な経験だったので、まぁ良かったと思っている。

 

さて通知が止まらない中で、逆に思ったのが「いつ通知が止まるのだろう」ということだった。

RTがRTを呼び、どんどん広がっているのだが、全Twitter使用者に広がるわけでもないだろうし、この流れはいつ終わるのだろうか。

折角なので少し調べてみることにした。

 

2 方法

今回はとりあえず「何日間くらい」ツイートが拡散されていくのかというのに焦点を当てて調べてみることにする。

そのためバズツイートのリプに以下のアンケートをぶら下げておき、バズツイートをいつ見たか調査をおこなう。

 

 

因みに予想はしていたが、正直にアンケートに答えない人もたくさんいた。

インターネットでは当たり前というか、うん。笑える。

 

アンケート終了日の時のデータをそのまま使うと正しい結果が得られない。

そのためアンケート始めた日から日が切り替わる時にスクリーンショットを取り、その日の増加数を正確に計算することにした。

吉野は割と早く寝るタイプの人間のため、研究のために夜更しをしたのはちょっと辛かった。

 

3 結果

7月27日 ・・・6369人 / 42.7%

7月28日 ・・・6924人 / 46.4%

7月29日 ・・・ 845人 /  5.7%

7月30日 ・・・ 334人 /  2.2%

7月31日 ・・・ 176人 /  1.2%

8月 1日 ・・・  85人 /  0.6%

8月 2日 ・・・ 126人 /  0.8%

8月 3日 ・・・  70人 /  0.5%

 

4 考察

 ツイート自体は7月26日のお昼にしている。

実際に広がり始めたのが夜くらいだ。

アンケートの数字を見ると7月28日をピークに、ガクッと減っている。

 

つまりバズりは大体2~3日間で終わることになる

しかもだんだん少なくなっていくわけではなく、一気に終わるようだ。

このあたりで拡散すべき界隈に全て行きわたるからであろうか?

 

ただ今回は4万RTくらいだったので、RT数によって収束具合は変わるかもしれない。

もっと息の長いバズもあるはず。

となると、当たり前のようだがRT数と収束具合に相関が考えられるかもしれない。

 

5 結論

4万くらいのバズツイートは大体2~3日で終わる。

ただしバズの規模によって、収束スピードは変わると考えられる。

 

もしかしたらインプレッションの数を調べていけば、もっと正確なことが分かったかもしれない。

次回はそちらと合わせて考えてみたい。

 

6 おまけ

最終的に結構バズったのだが、下のツイートしている時点では1万も行かないくらいだったんだよね。

でも最後の結果だけを見て「プチバズ」と書いてると思うと、すごいイキった感じに見えて笑える。

学級目標を作るのが嫌いなので、思いっきりシステマティックにした。

学級目標を作るのが嫌いだ

なぜならすぐに形骸化してしまうからだ。

 

目標を作ったはいいが、何も意味をなさない。

もちろんちゃんと運用しない自分が悪いのだが、とにかく形骸化しがちなので学級目標を作るのは嫌いだ。

ある時には学級目標を作らなかったこともあったが、全く問題なく運営できたのでやはり形骸化するくらいなら必要無いのだろう。

 

必要性は?

実際に上手い運用ができたことが無いので、学級目標の必要性自体がよく分からない。

強いて言うならば、前述の通り作らなくても普通に運営できた経験があるので、必要かと言われたら答えは「No」なのだろう。

 

ずっとそのような感じで学級経営をしてきたが、最近少し思いなおすところが出てきた。

「学級集団」という言葉がある通り、クラスは集団で動く。

学習自体は個で成り立つので、究極的には集団である必要も無いのだが、「集団」を形成することで個の学習効率も良くなり、全体としてのレベルを引き上げることが分かった。

 

要はクラス全員で協力すると、全体的に上手くいくということだ。

ならば学級経営において「集団作り」が大切になってくることは確かだろう。

 

では集団を形成するにはどうするか。

集団内での信頼関係づくりなどもそうだが、個人が集団を意識するには、集団としての目標をもたせることが手っ取り早い

となれば学級目標を作る必要が出てくる。

 

自分の中でぐるりと論理が一巡してきたが、集団作りのために学級目標を作る必要がありそうだ。

しかし目標は往々にして形骸化する。

 

それならば形骸化しないように、思いっきりシステマティックに取り組むことにする。

 

なぜ形骸化するのか

学級目標はなぜ形骸化するのか。

それは実際に運用しようとしないからだ。

 

目標を作ったはいいが、目標の振り返りをしない。作りっぱなし

そのために形骸化していき、学級目標の模造紙はいつしか壁に溶け込んだ模様になる。

 

理由のもう一つは、目標が曖昧過ぎるからだ。

だいたい「みんなで仲良く、なんでも全力で取り組む、元気なクラス」のような文言に落ち着いているケースを多く見るが、これは目標が曖昧過ぎる。

このような目標は何ら役に立たない。

 

内容は曖昧だし、振り返りもしない。

それは形骸化して当たり前だろう。

ならばこの逆を行けばいい。

 

概要

形骸化しない学級目標を作るために、目標を曖昧にせず、常に振り返れるようなシステムにする必要がある。

ということで、今年は試験的に以下のように取り組んでみた。

 

  1. 「どういうクラスにしたいか」「良いクラスとはどのようなクラスか」と子供に投げかけ、いくつか条件(目標)をピックアップする。目標を8個に絞る。
  2. 目標一つ一つに対して、その目標はどのような行動で達成できるかを更に集める。(マンダラチャート化)
  3. 8つの目標についてアンケートを取り、現状の確認と評価をする。
  4. 現状をもとに、足りない部分を補うべく、日直が毎日目標を立てる。
  5. その日の最後に振り返りをして達成できていたら、マンダラチャートの該当部分にシールを貼る。
  6. 頃合いを見て、再びアンケートを取り、8つの目標が達成しているか評価する。
  7. 以下、5~7を繰り返す。

 

各項の詳細

1 目標のピックアップ

クラス目標を作るので、まず目標を集める。

子供に「どのようなクラスにしたいか」「良いクラスとはどのようなクラスか」と投げかけておき、自分の理想のクラスの状態について考えさせる。

 

その後付箋を用い、目標にしたい文言を全体から集めて、KJ法で分類を行う。

swingroot.com

 

この時点で概ね6~8種類くらいの目標に分類する。

深ーく掘り下げなくても、「みんな仲が良い」とか「集中して勉強できる」とかそんな文言に落ち着いていく。

クラスの実態次第だが、あまりまとめ過ぎない方がいい。

全員で目標となる文言を決めても良かったが、わりと煩雑だったので、分類した時点で分類の内容に一番近い付箋の文言を取り入れた

 

2 マンダラチャート化

目標が決まったが「男女仲が良い」など曖昧なままなので、これを達成する行動基準を考える。

つまりマンダラチャート化する

u-note.me

 

これもたくさん集めるのが大変なので、クラスに目標を掲示しておき、目標を達成する行動基準を付箋で集める。

授業時間は少し使ったが、それ以外は1週間程度目標だけを掲示しておき、思いついたら付箋に書いて貼り付けるという方式をとった

 

その後、教師がある程度まとめてクラス全員で検証し、マンダラチャートを完成させた。

 

3 目標評価アンケート

次に事前のアンケートを行った。

8つの目標(今回のクラスの場合)に対して、現状どの程度達成されていると思うか、0~5の6段階でアンケートを取った。

0が全く達成できていないで、5がバッチリOKという感じだ。

 

アンケートを集計し、8つの目標について平均評価を出し、レーダーチャートにした

ja.wikipedia.org

 

レーダーチャートにすると、現在のクラスの状態が視覚化されるので、課題が明確になる。

ウチのクラスの場合は学習系の目標が低かったので、学習に対して課題感があることが分かった

 

子供としても現状が視覚化され課題がハッキリするとやる気が出るようで、授業態度が以前よりも良くなった。すげー。

 

4 毎日目標

アンケートを取るだけでも意識が変わることは分かったが、今回はストイックかつシステマティックに学級目標を運用したかったので、毎日目標を立てることにした。

 

翌日の日直を帰りに残し、翌日の目標を立てさせる。

目標は当日の朝の会で発表する。(黒板には既に掲示されている)

 

後述するが、マンダラチャートの達成した部分にはシールを貼っている。

そのためアンケートのレーダーチャートの様子とマンダラチャートのシールの状態、それから最近のクラスの様子を見て、翌日の目標を考える。

マンダラチャートの文言をそのまま使うこともあったし、少し変えて運用しやすい言葉にしていることもあった。

 

1学期の段階だと学習系に課題が見られたので、「授業前に準備をする」とか「姿勢をよくして話を聞く」とか、そういう目標が多かった。

しかし子供同士でいさかいがあった日の翌日には「人に優しく声をかける」とか、クラスの実際の様子に基づいて目標が立てられていたので、機械的でなく実態に即して運用されていたように思えた。

 

2学期以降は毎日の目標を五七五にする予定だ。

なんでって?面白いから

 

5 毎日振り返り

毎日目標は帰りの会の時に、振り返りを行う。

その日の目標を「よくできた」「できた」「もう少し」の3段階で挙手をさせ、クラス全員で評価する。

 

日直はその日の目標について自分なりの評価と理由を述べる。

最後に教員が「とてもよくできた(花丸)」「よくできた(二重丸)」「できた(丸)」「もう少し(△)」で評価と講評をする。

 

全体の評価に合わせて、掲示しているマンダラチャートの達成した部分にシールをつけていく

同じ目標の部分でも構わないと話してはいるが、現状はシールの部分は被っていない。

2学期からも続けていくと、日数的にどこかしら被ると思う。

 

6 再評価アンケート

1学期の最後にまたアンケートを行い、レーダーを作る予定。

というのも実践の最中なので、まだ1学期終わりのアンケートは実施していない。

 

前回のレーダーと比較して、自分たちが伸びた部分、悪くなった部分、変わらない部分を見つめなおすようにする

 

運用の実際と終わりに

今年の学級目標はこんな感じで運用している。

現在のところ概ね上手く進んでいるが、新しいレーダーを出した時に子供がどう反応するかが見物だ。

 

レーダーの手法だが、確か理想教育財団?の講演を聞きに行った時にやっていた手法で、「毎日目標」と「マンダラチャート」はやったことがあったので、組み合わせて思いっきりシステマティックにしてみた。

 

今後のどのようになっていくかは分からない。

もしかしたら十分に達成した目標は殿堂入り的な感じになるかもしれないし。

まだまだ研究途中である。

書写の片づけができなかった私の話

 木曜日の5,6時間目に書写の授業をした。3年生で2回目の書写の授業だ。新しい書写セットにまだまだ嬉しそうな顔をしている子供たちが、楽しそうに筆を操っている。

 今日の授業は横画の練習。めあては始筆に気をつけながら、横画を書くこと。指導はするが、筆の角度が寝てしまったり、真横に線を引っ張ったり、まだまだ未熟なところばかりだ。

 子供にとって、筆の上げ下げの感覚というのは分かりにくいものらしい。かく言う私も大学生になって、教員用の授業を受けた時に初めて習得したようなものだ。かなり意識しないと難しいものなのだろう。

 上げ下げの感覚、文字の太さに繋がる感覚だが、なかなか上手くいかない。線が細くなってしまう子供には、私が手をとって一緒に書いてみる。子供は自分の前に現れる太い線に驚きと感動を覚える。その後、自分でも書いてみるが思う通りにはいかない。それでいい。これから成長していくのだから。

 作品として仕上げるので名前も書くことになる。2回目の授業で名前の指導には至らない。もちろん、名前を指導してから文字の練習をしてもいいのだが、それは枝葉を行くような気がするので、私の好みではない。目の前に大きな文字を書きたがっている子供達がいるのだから、まずは大きく文字を書かせてあげたい。結果として、大した指導をせずに名前を書くことになるのだが、それはそれで記念になるから良いだろう。

 授業の際には、「先生が指導をしないで書いた、みんなの本当に初めての名前」を書くことになるとして話す。おそらく上手くは書けないことも先に話しておく。しかし子供達もだんだんと私への理解が進んできたようで、「それってつまり、『これからの成長と比べて楽しめ』ってことでしょ?」と返してくる。1か月と少しでこれだけの返しをしてくるのだから、素晴らしい。

 

 少し話がずれるが、教師の役割の1つは子供を成長させることだ。そのために教師は様々な手段を講じる。指導によって子供が成長したことを見られるのは、教師の何よりの楽しみだろう。しかし子供の成長が自分の指導によるものなのか、子供の自然な発育による効果なのかの判別は非常に難しい。私は、子供の成長の8割くらいは子供自身の自然成長の影響だと思っている。

 だからこそ子供自身が自分の成長を実感できる仕組みやフィードバックをする必要があると考えている。自然成長でも構わない。自身が実感できることが大切なのではないか。

 

 出来上がった作品だが、私の予想を上回る素晴らしい出来であった。巧みな始筆。力強く、なめらかな送筆。整った終筆。期待していた以上の作品が続々と仕上がる。

 名前も面白い。私が指導したことと言えば、小筆を使うこと、書き方、書く場所くらいだ。子供たちは自分なりに工夫しながら名前を書いてくる。「上手くいかなかった」と嬉しそうに話してくるので、「それでいいんだよ」と返す時間を楽しむ。上手くいかないことが楽しいのは良いことだ。

 書写の作品は面白い。出来上がった作品には、個性がよく出る。同じ文字を書いているからこそ、比べてみると、とても分かりやすい。大きな文字を書く子。細い点画になる子。文字がかすれる子。バランスが偏る子。文字には性格が出る。私が普段感じている性格とは違った性格も見える。心の底ではどんな性格が隠れているのか、毛筆には、そんなことが少し現れてくる気がする。

 

 作品が仕上がれば、後は道具の片づけである。仕上がった子から順次片づけを始める。最初の授業で指導した通り、筆や硯の墨を処理し、片づけていく。まだまだ覚えきれていないところもあるが、概ね順調に進んでいく。順調でない部分は友達に聞きたり、助けてもらったりしながら、片づけていく。上手なものだ。

 

 そう。上手なものだ。

 子供が書写の片づけをしていると、私はいつも思う。子供たちはなんと手際よく片付けていくのだろう。授業終了5分前には殆どの子が片づけを終えることができた。タイムマネジメントはまあまあ良いのではないだろうか。残りは1人だ。

 その子は道具に手をかけ、片づけている。しかしなかなか進まない。不真面目にやっている様子はない。手に取った筆をふき取り、巻いていく。巻いた筆を机に置く。そこでまず下敷きを片づけたほうが良いことに気が付く。巻いた筆をどかす。下敷きをとる。書写バックはどこか探す。見付けたバックの中を見るが、下敷きは上手く入らない。中を整理する…

 

 君なんだ。君なんだよ。私は君だった。

 私は書写の時間が好きではなかった。字が上手く書けないこともあったが、それ以上に準備や片づけが上手くできなかった。私にとって書写の片づけは煩雑の極みであった。今やるべきことは何となく分かるが、なかなか進まない。自分では不真面目にやっているつもりはない。しかし進まない。気が付くと周りは何となく片づけを終えている。

 教師になって分かった。やはり私は不器用だったのだ。多くの子供たちは煩雑ながらも、片づけを終えていく。終わらないのは私や君のような人なのだ。何故終わらないのだろう。いつも不思議に思っていた。外から見ると分かる。道具を右から左へ動かしているだけで、何も進んでいないのだ。手を動かした分だけ片づけたような気がするだけに、遅々として進まない状況に湿度の高い部屋にいるようなねっとりとした不快感だけが募っていく。君は今、そんなに感じていないようだが、心の底に溜まった澱がいつか君を苛立たせるかもしれない。

 

 私は少し特性が強い人間だ。もう少し言うと自閉傾向が高めだ。視野が狭い。色々なことを考えすぎたり、逆にのめりこみすぎたりしてしまうこともある。

 私は不器用だ。効率性を重んじるようなことを言う割に私は段取りが良くない。仕事では常にバタバタとしている。机の上は片づける習慣をつけているが、片づけが中心になり、仕事が進まない。周りを見て、なんと速やかに仕事をしているのかといつも思っている。

 

 道具が片付かない君は何をしてほしいのか。道具を片づけられなかった私は何をしてほしかったのか。助けてほしかったような気もする。でも助けはいらなかったような気もする。君を見ていても、やはり助けがほしいようには見えない。時間が欲しかったかもしれない。でも時間を意識して動いていたわけではなかった。手順の説明かな。それが一番近いような気もする。でも声をかけてほしいわけではなかった。自分でやるものだ。できなくはないのだから。今考えると、それが私のプライドだったのかもしれない。

 君はどうだろうか。声をかけてほしいのだろうか。それとも自分でやりたいのだろうか。手順書くらいは作ろうと思う。他の子にも良いだろうし。君も見るだろうか。

 私はまだ、君へどう声をかけていいか分からない。

【学校】分散登校したら理想的な教室になった【コロナ対策】

 tohruyoshino.hatenablog.com

 

臨時休校中の学校の様子は上の記事から。

 

分散登校の開始

6月からいよいよ学校が再開になった。2月の末から休校したので、なんと3か月ぶり。

毎年、夏休みで長期に休むことはあるけど3か月授業しなかったのは初めてだな。

 

うちの学校では午前と午後の2グループに分けて分散登校を行うことになった。

兄弟は同じグループにしてねという条件だったので、グループ分けは難航するかと思いきや、案外すんなりいって驚いた。

 

実際に登校したら、3か月ぶりにも関わらず、子供は案外普通であった。

ちゃんと登校するし、行儀よくしている。緊張も多少あったのだろう。

 

しかし登校&授業は3か月ぶり、担任としっかり向き合うのも2か月振りくらい。

そのため最初の1週間はとにかく優しく、温かい雰囲気作りを心掛けた。

黄金の3日間?知るか。非常事態じゃ。

 

時間がきつすぎる

分散登校で午前午後の2回、子供が来る。

 

児童の下校後は消毒作業を行う。

午前グループの下校時間から午後グループの登校まで、間の時間は約10分。

この間に机、蛇口、扉など指定の場所をアルコール消毒していく。

時間はかなりきつい。

 

毎日2展開する関係で休み時間も無し。

隙間時間はほぼ0。

提出物の確認や宿題の丸付けの時間が殆ど取れない。

何とか給食中に必死に確認をしている。

 

児童の健康状態を把握したいので、個別に話したかったが、その時間もとれない。

給食の時にちょくちょく話して何とか頑張って聞き取りをした。

 

とにかく時間が無い。

子供と雑談することもままならない。

時間だけはキツイ。

 

反転しよう

分散登校の関係で授業は30分で1時間授業となった

授業時間が15分削られるが、内容的には概ね網羅しなくてはいけない。

 

そのため反転授業を取り入れる

分散登校のおかげで子供に空いている時間も増えたので、家庭で進められる分は宿題として出す。

 

最初は課題ができるか心配であったが、子供もたくましいもので、ほぼ全員がちゃんと課題をやってきている。

再開から2週間たって、そろそろ平常運転に戻ろうかという雰囲気も出てきたが、このまま反転授業は続けていくつもり

学習効率が圧倒的に高くなっている。

 

人数は最高

1クラスを2グループに分けているので、授業中通常の半分しか児童はいない

 

そうなると机間指導もとにかく捗る。目が行き届く。

全ての時間が今までより圧倒的に短縮される。

児童の集中度も上がっている気がする。

 

そう考えると1クラスの限界人数ってやっぱり20人くらいなんじゃないかな

クラスの大きさ的にも非常に快適に空間を行き来できる。

隣のクラスに昨年まで不登校気味の児童がいたが、余裕で毎日来ている

どうやら人数的に落ち着くらしい。

 

グループもできるし、目は行き届くし、人数的にはここが一番いいなと思う。

 

教材研究は分担で

うちの学年では分散登校中は授業内容を全て揃えることにした。

「揃える」ことに関してはTwitterでガーガー言われていたが、個人的には特殊状況なのでクラスの個性を出すより、学年全体で動けることのメリットの方が大きいと思う。

そもそもうちの学校の分散登校システムだと各クラスの個性を出す暇が無い

 

授業内容を揃えることの一番のメリットは、教材研究を分担できることだ。

主任が国語、後輩が社会、吉野が算数と理科の教材研究をして他の人に教えている。

こうなると吉野は国語と社会のことは殆ど考えなくていいので、楽である。

 

思ったよりホワイト

なんやかんやで分散登校開始から2週間たったが、何とかなっている。

むしろ毎日定時ちょいくらいに退勤できているので、前より健全なくらいだ

 

通常登校になってくるとまた変わってくるだろうが、分散登校の知見が溜まってきたので、このまま応用していけると良いなと思っている。

 

【研究】一筆書きの星はどこから書くか問題【ツイッター】

はじめに

 

昔、一筆書きの星は人によってスタートの位置が違うことを知り、大変驚いた。

その時はmixiだったかな、そこで調査をしたわけだ。

案の定、人によってスタート位置が違った。

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今回はツイッターのフォロワーも増えてきてサンプルがたくさん取れそうな感じもしたので、もう一度調査をしてみることにした。

 

方法

Twitterの投票機能を使い、調査を行う。

基本的にスタートが決まればそこからは一筆書きなので、どこからスタートしどこへ行くかを調べる。

 

5つスタートがあって、それぞれ2つの方向に進むので、選択肢は全部で10通り。

Twitterの機能では1つのツイートで4通りしか投票できないため、3件連投し、10通りから選べるようにする。

Twitterの機能では4つの投票率が表示されるが、今回は3連投で調査するため、投票率から票数を調べていく。

 

結果

 

このままでだとそれぞれの投票数が分からないため、投票数を調べる。

以下は投票件数と全体における割合である。

  1. 1→4 ・・・120件(29.8%)
  2. 4→1 ・・・ 71件(17.6%)
  3. 1→3 ・・・ 19件( 4.7%)
  4. 3→1 ・・・  5件( 1.2%)
  5. 4→2 ・・・ 14件( 3.5%)
  6. 2→4 ・・・  6件( 1.5%)
  7. 2→5 ・・・  9件( 2.2%)
  8. 5→2 ・・・139件(34.5%)
  9. 3→5 ・・・ 10件( 2.5%)
  10. 5→3 ・・・ 10件( 2.5%)

考察

1→4、4→1、5→2で始まる人が多く、合計すると81.9%。

全体の8割はこの3パターンのいずれかからスタートする。

 

スタート位置で見ると以下のようになる。

  1. からスタート ・・・139件
  2. からスタート ・・・ 15件
  3. からスタート ・・・ 15件
  4. からスタート ・・・ 85件
  5. からスタート ・・・149件

特に1,4,5でスタートすることが多い。

理由は以下の2点であると考えられる。

 

右利きの人が多い

世の中は右利きの人が多い。

その人たちが書くならば2,3からのスタートは不自然な動きになり書きにくくなる。

そのため左寄りの1,4,5にスタートが集中したのだろう。

 

文字の書き方に準じる

1つ目の理由とも重なるが、多くの人が日本語の文字の書き方に準じて星も書いていると考えられる。

多かった3パターンの中でも1→4と5→2は特に日本語の文字のパターンによく出てくる。そのためこの2つに集中したのだろう。

 

ただこの場合は5→3のパターンが漢字でいう右払いに相当するため件数が増えてもおかしくないように感じられるかもしれない。

しかし常用漢字を思い出してもらえれば分かる通り、横線と右払いが同時にある時に右払いから先に書く漢字は殆ど無い。

(因みに「殆ど」と言ったのは調べるのを怠っているからだ。感覚的には全くない。)

そのため5からスタートする時、殆どの人は2へ進むと考えられる。

 

1→4と5→2でやや5→2の方が多かったのも、この点が関係しているかもしれない。

 

結論

一筆書きの星の書き方で最も多いのは5→2のパターン。

殆どの人は1→4、4→1、5→2のいずれかでスタートする人が多い。

それは右利きの人が多いことや漢字の書き方に準じているからと考えられる。

 

終わりに

今回の調査で一番多いパターンを知ることができ、長年の疑問が晴れた。

吉野は1→4のパターンで描いていたため、このパターンが一番多いだろうと思い込んでいたが、そうではない事実が分かり、新しい知見が得られた。

 

また書き方の件数の偏りから文字の書き方との関連性が如実に出ていることが分かった。

そのため一筆書きの星は絵というより文字の延長として描かれているのではないか。

 

今回は考察の中で右利きの多さを上げたが、それならば左利きの人で分けて考えると違う結果が出るかもしれない。

しかし左利きも漢字の書き順は右利きと同様である。

右利きと左利きでの違いを集めることで、一筆書きの星を書く際は利き手の影響が強いのか、文字の書き方の影響が強いのか確かめることができるのではないか。

追加の調査が必要になる。

 

謝辞

今回の投票に参加してくださった皆様、ツイートを拡散していただいた皆様にこの場を借りてお礼を申し上げます。

【インク先生】いい人ってどんな人【らの時代】

先日、インク先生主催「らの時代」に参加してきた。

面白かったので、備忘録も兼ねて内容と自分の意見をまとめようと思う。

 

因みに「インク先生とは?」という方はこちらをどうぞ。

tohruyoshino.hatenablog.com

 

 

いい人ってどんな人 

第2回「らの時代」のテーマは『いい人ってどんな人?』

抽象的で少し難しいけど、様々に考えていくと面白いテーマだ。

 

良い人は都合の良い人? 

最初に出てきたのが「都合の良い人」ではないかということ。

「良い人」というのは自分から見た視点であって、他の人にとって「良い人」であるかは分からない。その意味では、言い換えれば自分にとって都合の良い人を「良い人」とみなしているのではないか。

しかし「誰にとっても良い人」というのはいるような気がするとも。

 

「都合の良い人」は自分にとって良い人だろう

ここでいう「都合の良い」とは、自分のことを肯定してくれたり、一緒にいて楽しかったりという意味だ。

 

「都合の良い」という言葉は定義を考えると少し変わってくるところもある。

いわゆるいじめ構造の中で加害者が被害者から金銭をタカったりするが、加害者から見れば被害者は「都合の良い人」になる。

今回の都合の良さは上記の例とは異なり、もう少し前向きな意味合いがありそうだ。 

その意味では「都合の良い人」は「良い人」に分類されるだろう。

 

では誰にとっても都合の良い人はいるのだろうか。

話の中では誰にでも良い人はいるんじゃないかと出たが、おそらく答えはNoだ。

 

例えば前の職場にとても穏やかで信頼を集める人がいた。

重要な仕事も引き受けるしどんな人にも誠実に対応してくれるので、誰からも好かれていた。

この人は恐らく殆どの人にとって「良い人」だろう。間違いない。

 

しかし穏やかで周りに協調する分、強行や決断することは不得意であった。

決断が迫られることが多い場にいたら、この人は「良い人」になれたかは分からない。

仕事ができないお荷物として扱われていたかもしれない。

 

「良い」というのは相対的尺度だ。

ある側面から見たら「良い」と思われることも、反対の側面から見たら「悪い」に変化する。

「誰からも良い人はいるか」という問いに感覚的には肯定できる。

しかし絶対的に「良い人」というのはいないだろう。

 

良い人と好きな人は一致するか

良い人と好きな人は一致するだろうか。

そうあってほしいという思いはあるが。

両親が金銭的に保障とかしてくれたから「良い人」なんだろうけど、好きではなかった。だから一致しないこともあるだろう。

 

この話はちょっと見方が変わってきている。

今まで「良い人」という言葉の中で議論があったが、もしかしたら「好きな人」は良い人かもしれないという話になっている。

 

これの答えもおそらくNoだろう。

引用の親の話でも分かる通り、少しずれが出てきそうだ。

「好き」という言葉も相対的な尺度をもつので、「良い⇔悪い」と「好き⇔嫌い」を縦と横軸において考えると分かりやすいかもしれない。

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この図の中で「良い人」が全員1に入るかと言ったら、それは無いだろう。

先程の両親の話のように「嫌いだけど良い人」、つまり3に入る人がいるはずだ。

 

他にも厳しい鬼コーチのような人は、「自分の力を伸ばしてくれる」「勝たせてくれる」という面で目標を達成させてくれる”良い人”に入りそうだが、嫌われることも大いにありうる

 

「先生」は良い人っぽい

良い人の要素に真面目とか自己犠牲という言葉が出てきた。

それを集めていくと、先生って「良い人」っぽい感じがする。

でも確かに部活とかに打ち込んでくれる先生は生徒や保護者にとって「良い人」かもしれないが、部活に時間を割かれると家族にとっては「良い人」ではない。

 

何をもって良いとするかが難しいが、上の話だと確かに先生は「良い人」の要素が多いかもしれない。

先生という職業に求められる要素と「良い人」の要素が重なる部分が多いのだろう。

職業的には「良い人」であるかもしれないが、個人個人が先生として求められる像を満たしているかは分からないので、「先生が良い人」というのはちょっと個人によるとしか言えない

 

また上の引用文のように『保護者や生徒にとって良い人であっても家族にとっては良い人ではない』とあるが、保護者と家族は違う立場の人間なので「良い先生だけど、良い伴侶(親)ではない」と言うのがより正確だろう。

 

ここからもやはり普遍的な「良い人」を見付けるのは難しいということが分かる。

 

テーマはどこから

今回のテーマだが、ふてくされている児童や生徒に対してどう向き合うかというところから始まり、「良い人とは何だろう」と疑問に思ったところから生まれている。

その子にとっての良さとは何だろうか。

子供にとっての「良い人」と大人にとっての「良い人」の感覚はだいぶ異なる。

子供は、思っているより大人だが、思っているより子供だ。この匙加減が難しい。 

 

よく言われる「あなたのためだから」という言葉にはうさん臭さがある。

本当にその子にとって良いかどうかの正しさを大人は決められないはず。

世代ごとにやるべきことがあり、やるべきことを学ぶことは大切だ。

しかし既存の学習内容が必要になるかは子供の将来次第になる。

既存の学習・学歴は将来のセーフティネットとして役割がある一方で、他のことを行う時間を奪っている可能性もある。

議論の中にあった「あなたのためだから」という言葉のうさん臭さは納得できる。

正確には「(私が考える)あなたのためだから」だろう。

「あなたのため」という言葉は、発言者の論理を相手に押し付ける時のカモフラージュの役割を果たしている。

 

子供にとって良いということ

ここから「その子にとって良い人・良いこと」の話が中心になる。

既存の学習内容がその子にとって必要なのか。

既存の学習やシステムが別の才能を奪っているのではないか。

学校の先生はその子の才能を見付けることができるか。

 

これらの話は「らの時代」以外の場所でも盛んになされているだろう。

教育者にとって普遍的なテーマの一つであるように思う。

 

まず既存の学習内容がその子にとって必要かということは、我々は子供に寄り添って考えがちだが、社会の面から考えてみたい。

教育の目的は教育基本法第1条に書かれている通り「人格の完成」であり、一人前の国民を育成することにある。

 

そのため義務教育では一人前の国民になるために必要な内容を全て網羅している。

つまり義務教育段階で学習する内容は社会に出るために絶対的に必要であり、ある個人にとって必要かどうかという議論は本来成立しない。ただし学習の場が学校である必要は無い。

なので既存の学習が必要かという問いにはYes。とはいえ、これは理想論だ。

 

次に義務教育の内容を学習させることで他の才能を奪っているのではないかということだが、これは可能性としては大いにありうる。

しかし先述の通り、義務教育段階の学習は国民として必ず身に付けるべきものであり、国家としては最優先事項だ。そのため勉強させることは全く持って無駄ではない。

 

他の才能を開花させるのは大いに良いと思う。

しかしそちらに割いた分、逆に失われるものもあるわけだ。

失われたものを更に別のところで獲得する、或いは失われていても良しとする社会全体の受け皿があるか、これも疑問が残る。

 

才能の話から、先生はその子の才能を見付けられるかということだが、これは難しい。

私が子供によくする例え話があるが、以下のようなものだ。

君たちには必ず何か才能がある。

だが学校という場で才能が見つかるかは分からない。

計算がすごく速いとか、運動が抜群にできるという才能はすぐに見付けられる。

でもカウボーイみたいに投げ縄をして馬を捕まえるのがスゲー上手いという才能のようなものは、学校でも、或いは生きているうちにすら見つかるか分からない。

君たちには絶対何か才能がある。一部の子だけ優れているということはない。

だから早く見付けられるように色々なことの挑戦しなさい。 

 

学校内で見付けられる才能は一部だけだろう。

学校は社会の一部でしかないから、それは仕方ないのではないか。

学校は国民として必要なことを教える場所で、才能を見出す機関としてはできていない。

だからこそ先生は見つけ出した才能は潰してはいけない

でも学校の最優先は一人前の国民の育成だから、そこのバランスが難しい。

 

失敗って何だ 

親ガチャ 先生ガチャ

教員は学校の世界の大人。子供は学校の外の世界から来る。

子供が「絵を描く」とか学校の外の世界に踏み出そうとしたら、先生は「子供が選ばなかった世界の人」になってしまう。そう考えると、子供の伴走者(サポーター)はやっぱり親になるのではないか。

そうなると親と子供の意思に齟齬が出ると困る。

 

多種多様な子供たちのニーズに全て対応するには、先生は少なすぎる。

やはりその子に対応するのは、その子の保護者だろう。

 

そして子供に責任が負えない限りは、最終決定者は保護者になる。当たり前ではあるけど。

そう考えると保護者の裁量で子供の方針が決まる。子供から見れば運になる

この話を聞いていて思ったのが、固定級とか勧める時の面談に似ている

結局最後は保護者の判断になるわけだ。

 

失敗させよう

伴走者が子供のことを思えば思うほど、保守的な決定をしていく気がする。

失敗しないための線をどこまで引くか。

本当は大人は無責任な方が良い。

子供には自分の力で立つ力を身に付けてほしいと思っているし、教員は案外そういうことをやっているかも。

この辺は良い上司のマネジメントの話と被る点が多い。

良い上司は手取り足取り教えず、部下にどんと仕事を任せる。

それで失敗してしまったら、部下をケアして、失敗をフォローしておく。

 

先生も同じだが、細々とした点ではなく最低限外さない場所を作っておき、後は任せた方が良いのだろう。

 

失敗の生産

「子供の失敗=悪いこと」 という方程式は周りが作っているのでは?

本来、子供は失敗と思っていないかもしれない。

大人が想定していない所に行ったときに、大人から「失敗」のフィードバックを受けて、失敗と考えている。

これは確かにありそう。何を失敗とするかは本人の尺度であるはずだ。

ただ社会に反する行為は本人の尺度でなく失敗にカウントしていいだろう。

 

先程の良い上司のマネジメントとも被るが、個人的に良い教育は放し飼いだと思っている。

この範囲なら自由にやっていいよという枠組みを作ってあげる。

場合によっては枠組みを広げても良いし、縮めても良い。

 

伴走者の正体

伴走者は子供にねらいを聞いて、方向をハッキリさせてあげて、その後フィードバックしてあげると良いのかな。

学校だったら、子供に評価方法を事前に聞いて、そこに達成しているかをそれぞれ見て評価してあげる必要があるのかも。

 これまでの議論の中で出てきた伴走者をまとめたものがこの時に出てきたが、これはコーチングの手法そのもの

やはり教育が目指すべき場所はコーチングの要素が強いのだろう。

あと引用部の評価方法は、形成的評価の一部になるような気がする。

 

いい人ってどんな人

この問いの答えは難しい。

最初の方でも述べたが、「いい」というのは相対的尺度なので、「いい」という言葉の定義をもう少し詰めていく、また別の面も見えてきたかもしれない

 

ただ議論の中で分かることは、大人にとっての良い人と子供にとっての良い人は違いそうだということ。

教員であるならば、子供にとっての良い人とはどのような人か考える価値はあるだろう。

 

次回はどんな話になるか。また楽しみだ。