【インク先生】いい人ってどんな人【らの時代】

先日、インク先生主催「らの時代」に参加してきた。

面白かったので、備忘録も兼ねて内容と自分の意見をまとめようと思う。

 

因みに「インク先生とは?」という方はこちらをどうぞ。

tohruyoshino.hatenablog.com

 

 

いい人ってどんな人 

第2回「らの時代」のテーマは『いい人ってどんな人?』

抽象的で少し難しいけど、様々に考えていくと面白いテーマだ。

 

良い人は都合の良い人? 

最初に出てきたのが「都合の良い人」ではないかということ。

「良い人」というのは自分から見た視点であって、他の人にとって「良い人」であるかは分からない。その意味では、言い換えれば自分にとって都合の良い人を「良い人」とみなしているのではないか。

しかし「誰にとっても良い人」というのはいるような気がするとも。

 

「都合の良い人」は自分にとって良い人だろう

ここでいう「都合の良い」とは、自分のことを肯定してくれたり、一緒にいて楽しかったりという意味だ。

 

「都合の良い」という言葉は定義を考えると少し変わってくるところもある。

いわゆるいじめ構造の中で加害者が被害者から金銭をタカったりするが、加害者から見れば被害者は「都合の良い人」になる。

今回の都合の良さは上記の例とは異なり、もう少し前向きな意味合いがありそうだ。 

その意味では「都合の良い人」は「良い人」に分類されるだろう。

 

では誰にとっても都合の良い人はいるのだろうか。

話の中では誰にでも良い人はいるんじゃないかと出たが、おそらく答えはNoだ。

 

例えば前の職場にとても穏やかで信頼を集める人がいた。

重要な仕事も引き受けるしどんな人にも誠実に対応してくれるので、誰からも好かれていた。

この人は恐らく殆どの人にとって「良い人」だろう。間違いない。

 

しかし穏やかで周りに協調する分、強行や決断することは不得意であった。

決断が迫られることが多い場にいたら、この人は「良い人」になれたかは分からない。

仕事ができないお荷物として扱われていたかもしれない。

 

「良い」というのは相対的尺度だ。

ある側面から見たら「良い」と思われることも、反対の側面から見たら「悪い」に変化する。

「誰からも良い人はいるか」という問いに感覚的には肯定できる。

しかし絶対的に「良い人」というのはいないだろう。

 

良い人と好きな人は一致するか

良い人と好きな人は一致するだろうか。

そうあってほしいという思いはあるが。

両親が金銭的に保障とかしてくれたから「良い人」なんだろうけど、好きではなかった。だから一致しないこともあるだろう。

 

この話はちょっと見方が変わってきている。

今まで「良い人」という言葉の中で議論があったが、もしかしたら「好きな人」は良い人かもしれないという話になっている。

 

これの答えもおそらくNoだろう。

引用の親の話でも分かる通り、少しずれが出てきそうだ。

「好き」という言葉も相対的な尺度をもつので、「良い⇔悪い」と「好き⇔嫌い」を縦と横軸において考えると分かりやすいかもしれない。

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この図の中で「良い人」が全員1に入るかと言ったら、それは無いだろう。

先程の両親の話のように「嫌いだけど良い人」、つまり3に入る人がいるはずだ。

 

他にも厳しい鬼コーチのような人は、「自分の力を伸ばしてくれる」「勝たせてくれる」という面で目標を達成させてくれる”良い人”に入りそうだが、嫌われることも大いにありうる

 

「先生」は良い人っぽい

良い人の要素に真面目とか自己犠牲という言葉が出てきた。

それを集めていくと、先生って「良い人」っぽい感じがする。

でも確かに部活とかに打ち込んでくれる先生は生徒や保護者にとって「良い人」かもしれないが、部活に時間を割かれると家族にとっては「良い人」ではない。

 

何をもって良いとするかが難しいが、上の話だと確かに先生は「良い人」の要素が多いかもしれない。

先生という職業に求められる要素と「良い人」の要素が重なる部分が多いのだろう。

職業的には「良い人」であるかもしれないが、個人個人が先生として求められる像を満たしているかは分からないので、「先生が良い人」というのはちょっと個人によるとしか言えない

 

また上の引用文のように『保護者や生徒にとって良い人であっても家族にとっては良い人ではない』とあるが、保護者と家族は違う立場の人間なので「良い先生だけど、良い伴侶(親)ではない」と言うのがより正確だろう。

 

ここからもやはり普遍的な「良い人」を見付けるのは難しいということが分かる。

 

テーマはどこから

今回のテーマだが、ふてくされている児童や生徒に対してどう向き合うかというところから始まり、「良い人とは何だろう」と疑問に思ったところから生まれている。

その子にとっての良さとは何だろうか。

子供にとっての「良い人」と大人にとっての「良い人」の感覚はだいぶ異なる。

子供は、思っているより大人だが、思っているより子供だ。この匙加減が難しい。 

 

よく言われる「あなたのためだから」という言葉にはうさん臭さがある。

本当にその子にとって良いかどうかの正しさを大人は決められないはず。

世代ごとにやるべきことがあり、やるべきことを学ぶことは大切だ。

しかし既存の学習内容が必要になるかは子供の将来次第になる。

既存の学習・学歴は将来のセーフティネットとして役割がある一方で、他のことを行う時間を奪っている可能性もある。

議論の中にあった「あなたのためだから」という言葉のうさん臭さは納得できる。

正確には「(私が考える)あなたのためだから」だろう。

「あなたのため」という言葉は、発言者の論理を相手に押し付ける時のカモフラージュの役割を果たしている。

 

子供にとって良いということ

ここから「その子にとって良い人・良いこと」の話が中心になる。

既存の学習内容がその子にとって必要なのか。

既存の学習やシステムが別の才能を奪っているのではないか。

学校の先生はその子の才能を見付けることができるか。

 

これらの話は「らの時代」以外の場所でも盛んになされているだろう。

教育者にとって普遍的なテーマの一つであるように思う。

 

まず既存の学習内容がその子にとって必要かということは、我々は子供に寄り添って考えがちだが、社会の面から考えてみたい。

教育の目的は教育基本法第1条に書かれている通り「人格の完成」であり、一人前の国民を育成することにある。

 

そのため義務教育では一人前の国民になるために必要な内容を全て網羅している。

つまり義務教育段階で学習する内容は社会に出るために絶対的に必要であり、ある個人にとって必要かどうかという議論は本来成立しない。ただし学習の場が学校である必要は無い。

なので既存の学習が必要かという問いにはYes。とはいえ、これは理想論だ。

 

次に義務教育の内容を学習させることで他の才能を奪っているのではないかということだが、これは可能性としては大いにありうる。

しかし先述の通り、義務教育段階の学習は国民として必ず身に付けるべきものであり、国家としては最優先事項だ。そのため勉強させることは全く持って無駄ではない。

 

他の才能を開花させるのは大いに良いと思う。

しかしそちらに割いた分、逆に失われるものもあるわけだ。

失われたものを更に別のところで獲得する、或いは失われていても良しとする社会全体の受け皿があるか、これも疑問が残る。

 

才能の話から、先生はその子の才能を見付けられるかということだが、これは難しい。

私が子供によくする例え話があるが、以下のようなものだ。

君たちには必ず何か才能がある。

だが学校という場で才能が見つかるかは分からない。

計算がすごく速いとか、運動が抜群にできるという才能はすぐに見付けられる。

でもカウボーイみたいに投げ縄をして馬を捕まえるのがスゲー上手いという才能のようなものは、学校でも、或いは生きているうちにすら見つかるか分からない。

君たちには絶対何か才能がある。一部の子だけ優れているということはない。

だから早く見付けられるように色々なことの挑戦しなさい。 

 

学校内で見付けられる才能は一部だけだろう。

学校は社会の一部でしかないから、それは仕方ないのではないか。

学校は国民として必要なことを教える場所で、才能を見出す機関としてはできていない。

だからこそ先生は見つけ出した才能は潰してはいけない

でも学校の最優先は一人前の国民の育成だから、そこのバランスが難しい。

 

失敗って何だ 

親ガチャ 先生ガチャ

教員は学校の世界の大人。子供は学校の外の世界から来る。

子供が「絵を描く」とか学校の外の世界に踏み出そうとしたら、先生は「子供が選ばなかった世界の人」になってしまう。そう考えると、子供の伴走者(サポーター)はやっぱり親になるのではないか。

そうなると親と子供の意思に齟齬が出ると困る。

 

多種多様な子供たちのニーズに全て対応するには、先生は少なすぎる。

やはりその子に対応するのは、その子の保護者だろう。

 

そして子供に責任が負えない限りは、最終決定者は保護者になる。当たり前ではあるけど。

そう考えると保護者の裁量で子供の方針が決まる。子供から見れば運になる

この話を聞いていて思ったのが、固定級とか勧める時の面談に似ている

結局最後は保護者の判断になるわけだ。

 

失敗させよう

伴走者が子供のことを思えば思うほど、保守的な決定をしていく気がする。

失敗しないための線をどこまで引くか。

本当は大人は無責任な方が良い。

子供には自分の力で立つ力を身に付けてほしいと思っているし、教員は案外そういうことをやっているかも。

この辺は良い上司のマネジメントの話と被る点が多い。

良い上司は手取り足取り教えず、部下にどんと仕事を任せる。

それで失敗してしまったら、部下をケアして、失敗をフォローしておく。

 

先生も同じだが、細々とした点ではなく最低限外さない場所を作っておき、後は任せた方が良いのだろう。

 

失敗の生産

「子供の失敗=悪いこと」 という方程式は周りが作っているのでは?

本来、子供は失敗と思っていないかもしれない。

大人が想定していない所に行ったときに、大人から「失敗」のフィードバックを受けて、失敗と考えている。

これは確かにありそう。何を失敗とするかは本人の尺度であるはずだ。

ただ社会に反する行為は本人の尺度でなく失敗にカウントしていいだろう。

 

先程の良い上司のマネジメントとも被るが、個人的に良い教育は放し飼いだと思っている。

この範囲なら自由にやっていいよという枠組みを作ってあげる。

場合によっては枠組みを広げても良いし、縮めても良い。

 

伴走者の正体

伴走者は子供にねらいを聞いて、方向をハッキリさせてあげて、その後フィードバックしてあげると良いのかな。

学校だったら、子供に評価方法を事前に聞いて、そこに達成しているかをそれぞれ見て評価してあげる必要があるのかも。

 これまでの議論の中で出てきた伴走者をまとめたものがこの時に出てきたが、これはコーチングの手法そのもの

やはり教育が目指すべき場所はコーチングの要素が強いのだろう。

あと引用部の評価方法は、形成的評価の一部になるような気がする。

 

いい人ってどんな人

この問いの答えは難しい。

最初の方でも述べたが、「いい」というのは相対的尺度なので、「いい」という言葉の定義をもう少し詰めていく、また別の面も見えてきたかもしれない

 

ただ議論の中で分かることは、大人にとっての良い人と子供にとっての良い人は違いそうだということ。

教員であるならば、子供にとっての良い人とはどのような人か考える価値はあるだろう。

 

次回はどんな話になるか。また楽しみだ。