一人一台端末を管理したければイズムを共有しろ

一人一台端末が来たぞ

政府のGIGAスクール構想を受けて、一人一台端末が子どもに配付された。多くの自治体が今年の1月くらいから導入され、世の中では様々な実践やらそれらをまとめた実践本が売り出されている。

私のいる自治体でも比較的早い時期からiPadが導入され、今はバリバリ使っている。私自身は情報関係に通じているところがあり、あまり困っていない。だが苦手な先生からすると、使ってはいるもののなかなか困っている姿が見られる。

 

そうなると質問もよく来るが、その中で多いのが端末をどこまで(いつ)使わせて良いかというのもだ。要は端末を使う上でのルールである。

先日、教育委員会の方から私の実践報告をしてほしいと研修に呼ばれたが、そこでの質問でも学級ではどのようなルールの下で端末を使わせているかが尋ねられた。

 

みんな、子供に今まで使わせたことが無いから、子供がどんな反応をするか分からなくて怖がっている感じがする。その結果、明確なルールを作ることで管理をして、安心感を生み出そうとしているらしい。

私の勤務校はその傾向は無い(排除した)が、後輩の勤務校では管理職がルールを作りたがるきらいがあるらしく、後輩も辟易していた。

 

ルールを作るとどうなるか

 

まず結論から言うと、ルールを作ると一人一台端末の活用は失敗する。 

「え、ルールがあっても上手くいってる学校はあるよ」と言う人もいるが、それはルールが前述の人たちが考えているようなルールではなく、ざっくりとした最低限のものだからだ。

「壊してしまったら先生にちゃんと言いましょう」くらいのルールなら良いが、「このアプリは使ってはいけません」という内容のルールは失敗する。

 

不慣れな先生たちは端末を使った逸脱行動を恐れてルールを作るらしい。しかしよく考えるとルールを設けるから、「ルール外」の行動が生まれることになる。

「学習以外では使わない」というルールを作るから休み時間や授業間の時間に使うのを咎められるし、「このアプリは使わない」というルールを作るから使ってよいかの許可を子供からいちいち質問されることになる。

 

そして教員が設けたルールが守られない時にはどうなるか。新しいルールの追加である。こうなると「このケースはOK」「あのケースはダメ」と、教員がいちいち判断しないといけなくなるし、そこから外れると子供がちょこちょこ許可を取りに来るようになるし、結局設定したケースから逸脱して指導しなくてはいけないことになるし、典型的な負のループに陥る。

 

ルールを作ってもそこから外れる行動は必ず起きるわけで、そこへ更にルールを設けても、結局いたちごっこになるので、つまり端末を管理するためのルール作りは無駄で、失敗に終わる

 

 

自制心との戦い

子供にこちらが意図しているような使い方をしてもらうには、外部から制限をかけるのではなく、内発的に行ってもらう必要がある。とどのつまり子供が自制して使えるようにならないといけない

 

では子供が自制するためにはどうするか。端末のあるべき使い方の認識を共有する必要がある。教師が端末を子供にどう使ってほしいかというイズムを共有する、悪く言えば刷り込みをする

 

吉野学級の思想(イズム)は2つである。

  • タブレット、使ってますか?使われてますか?
  • そこに学びはあるか。

この2つを子供たちと常に共有している。

 

タブレット、使ってますか?使われていますか?

ルール問題の中で他の教員からよく受ける質問の1つが「休み時間に使ってもいいものか」というものだ。

相談しにくる人の懸念としては、休み時間も端末を使ってよいことにすると、休み時間に端末漬けになってしまうことだろう。

 

結論から言えば、解禁すると最初は全員端末漬けになる。これは99%間違いない。吉野のクラスでもそうなったし、他の事例を聞いていてもそうなっている。

しかしいずれ飽きて他のことをし始める子が出てくる。全員が端末漬けになるのは、せいぜい1~2週間程度だ。 

 

子供にとって端末は物珍しく、いつも使いたくてウズウズしている。しかし物珍しさが無くなった時点で冷静に向き合い始める

冷静になってくると、前と同じように外へ遊びに行く子も出てくるし、本を読み始める子も出るし、大体以前と同じような状態へ戻っていく。もちろん遊びの選択肢の中で、端末で遊ぶ子もいるわけだが。

 

そういった一定の期間をおいても、まだ熱が冷めないような状態にある場合はそれは端末と冷静に付き合えていないと言える。これが「タブレットに使われている」状態だ。簡単に言えば依存状態だね。

 

これは自制とは程遠い姿で、教員としても明らかに望ましくないと思っている。こちらとしても子供には依存せず、使いこなしてほしい。

 

なので子供に指導するときは、大体こんな感じで伝えている。

端末は人間が豊かに暮らすために生み出した道具だ。必要ないのに端末を使ったり、別のことをしてしまうのは端末を使いこなしているとは言えない。むしろ端末に遊ばれているよ。人間だったら、必要かどうか選択したりできるようになってほしい。

端末に使われるな。使いこなせ。

 

こう伝えておくと、子供としても自分が選択して端末を使っているか、それとも何となく使いたくなって使っているか意識できるようになる。この思想が共有できれば、端末の管理に関しては大体OK。

というのも、大体望ましくない使い方をしている場合は端末に「使われている」とみなされるので、それは良くないという認識が共有ができる。色々な場面でいわゆる逸脱した行動が出ても、「使われている」という言葉で一括りに指導ができる。

 

 

そこに学びはあるか

もう一つの思想が「そこに学びはあるか」というもの。これは特に学習に関わる場面における思想。

 

授業では当然学習に関係ないことはしないことが前提だが、情報端末を使うとそのあたりの自制心が曖昧になるケースが多い。多分、教員が怖がっているのもこのケース。

授業中に関係の無いことを検索し始めたり、遊び始めたりするのではないかと思っているらしい。

 

そのため子供には特に端末を使う際には「そこに学びはあるか」という思想を強烈に伝える。自分がやっている活動が学習に関係することなのか、自分に問わせる

 

端末を毎日のように活用し、この思想をが浸透してくると、逆に授業中関係ないことをしている子は周りから白い目で見られるようになる。特に共同作業などの時に関係ないことをしていると、顰蹙ものだ。

 

自習時間などに端末を使っていいかと聞かれることがあるが、これも思想が共有できると判断が簡単で、学びがあることなら良いし、遊びになるようならダメとなる。

 

思想が規範となる

私の学級では、この2点を絶対的な思想として子供たちと共有している。

逆に言えば、この2つの思想に反する行為が”ルール違反”となり、細かいことまで決める必要が無くなるし、むしろ子供が自制して端末と向き合うことができる。

 

とはいえ、最初からこの状態というのも難しいし、段階的に使う場面を増やしていくのはもちろん良いと思うが、ルール作りで管理することは絶対やめた方が良い。

一人一台端末を管理したければ、子供に教師のイズムを共有するのが一番。