書写の片づけができなかった私の話

 木曜日の5,6時間目に書写の授業をした。3年生で2回目の書写の授業だ。新しい書写セットにまだまだ嬉しそうな顔をしている子供たちが、楽しそうに筆を操っている。

 今日の授業は横画の練習。めあては始筆に気をつけながら、横画を書くこと。指導はするが、筆の角度が寝てしまったり、真横に線を引っ張ったり、まだまだ未熟なところばかりだ。

 子供にとって、筆の上げ下げの感覚というのは分かりにくいものらしい。かく言う私も大学生になって、教員用の授業を受けた時に初めて習得したようなものだ。かなり意識しないと難しいものなのだろう。

 上げ下げの感覚、文字の太さに繋がる感覚だが、なかなか上手くいかない。線が細くなってしまう子供には、私が手をとって一緒に書いてみる。子供は自分の前に現れる太い線に驚きと感動を覚える。その後、自分でも書いてみるが思う通りにはいかない。それでいい。これから成長していくのだから。

 作品として仕上げるので名前も書くことになる。2回目の授業で名前の指導には至らない。もちろん、名前を指導してから文字の練習をしてもいいのだが、それは枝葉を行くような気がするので、私の好みではない。目の前に大きな文字を書きたがっている子供達がいるのだから、まずは大きく文字を書かせてあげたい。結果として、大した指導をせずに名前を書くことになるのだが、それはそれで記念になるから良いだろう。

 授業の際には、「先生が指導をしないで書いた、みんなの本当に初めての名前」を書くことになるとして話す。おそらく上手くは書けないことも先に話しておく。しかし子供達もだんだんと私への理解が進んできたようで、「それってつまり、『これからの成長と比べて楽しめ』ってことでしょ?」と返してくる。1か月と少しでこれだけの返しをしてくるのだから、素晴らしい。

 

 少し話がずれるが、教師の役割の1つは子供を成長させることだ。そのために教師は様々な手段を講じる。指導によって子供が成長したことを見られるのは、教師の何よりの楽しみだろう。しかし子供の成長が自分の指導によるものなのか、子供の自然な発育による効果なのかの判別は非常に難しい。私は、子供の成長の8割くらいは子供自身の自然成長の影響だと思っている。

 だからこそ子供自身が自分の成長を実感できる仕組みやフィードバックをする必要があると考えている。自然成長でも構わない。自身が実感できることが大切なのではないか。

 

 出来上がった作品だが、私の予想を上回る素晴らしい出来であった。巧みな始筆。力強く、なめらかな送筆。整った終筆。期待していた以上の作品が続々と仕上がる。

 名前も面白い。私が指導したことと言えば、小筆を使うこと、書き方、書く場所くらいだ。子供たちは自分なりに工夫しながら名前を書いてくる。「上手くいかなかった」と嬉しそうに話してくるので、「それでいいんだよ」と返す時間を楽しむ。上手くいかないことが楽しいのは良いことだ。

 書写の作品は面白い。出来上がった作品には、個性がよく出る。同じ文字を書いているからこそ、比べてみると、とても分かりやすい。大きな文字を書く子。細い点画になる子。文字がかすれる子。バランスが偏る子。文字には性格が出る。私が普段感じている性格とは違った性格も見える。心の底ではどんな性格が隠れているのか、毛筆には、そんなことが少し現れてくる気がする。

 

 作品が仕上がれば、後は道具の片づけである。仕上がった子から順次片づけを始める。最初の授業で指導した通り、筆や硯の墨を処理し、片づけていく。まだまだ覚えきれていないところもあるが、概ね順調に進んでいく。順調でない部分は友達に聞きたり、助けてもらったりしながら、片づけていく。上手なものだ。

 

 そう。上手なものだ。

 子供が書写の片づけをしていると、私はいつも思う。子供たちはなんと手際よく片付けていくのだろう。授業終了5分前には殆どの子が片づけを終えることができた。タイムマネジメントはまあまあ良いのではないだろうか。残りは1人だ。

 その子は道具に手をかけ、片づけている。しかしなかなか進まない。不真面目にやっている様子はない。手に取った筆をふき取り、巻いていく。巻いた筆を机に置く。そこでまず下敷きを片づけたほうが良いことに気が付く。巻いた筆をどかす。下敷きをとる。書写バックはどこか探す。見付けたバックの中を見るが、下敷きは上手く入らない。中を整理する…

 

 君なんだ。君なんだよ。私は君だった。

 私は書写の時間が好きではなかった。字が上手く書けないこともあったが、それ以上に準備や片づけが上手くできなかった。私にとって書写の片づけは煩雑の極みであった。今やるべきことは何となく分かるが、なかなか進まない。自分では不真面目にやっているつもりはない。しかし進まない。気が付くと周りは何となく片づけを終えている。

 教師になって分かった。やはり私は不器用だったのだ。多くの子供たちは煩雑ながらも、片づけを終えていく。終わらないのは私や君のような人なのだ。何故終わらないのだろう。いつも不思議に思っていた。外から見ると分かる。道具を右から左へ動かしているだけで、何も進んでいないのだ。手を動かした分だけ片づけたような気がするだけに、遅々として進まない状況に湿度の高い部屋にいるようなねっとりとした不快感だけが募っていく。君は今、そんなに感じていないようだが、心の底に溜まった澱がいつか君を苛立たせるかもしれない。

 

 私は少し特性が強い人間だ。もう少し言うと自閉傾向が高めだ。視野が狭い。色々なことを考えすぎたり、逆にのめりこみすぎたりしてしまうこともある。

 私は不器用だ。効率性を重んじるようなことを言う割に私は段取りが良くない。仕事では常にバタバタとしている。机の上は片づける習慣をつけているが、片づけが中心になり、仕事が進まない。周りを見て、なんと速やかに仕事をしているのかといつも思っている。

 

 道具が片付かない君は何をしてほしいのか。道具を片づけられなかった私は何をしてほしかったのか。助けてほしかったような気もする。でも助けはいらなかったような気もする。君を見ていても、やはり助けがほしいようには見えない。時間が欲しかったかもしれない。でも時間を意識して動いていたわけではなかった。手順の説明かな。それが一番近いような気もする。でも声をかけてほしいわけではなかった。自分でやるものだ。できなくはないのだから。今考えると、それが私のプライドだったのかもしれない。

 君はどうだろうか。声をかけてほしいのだろうか。それとも自分でやりたいのだろうか。手順書くらいは作ろうと思う。他の子にも良いだろうし。君も見るだろうか。

 私はまだ、君へどう声をかけていいか分からない。

【学校】分散登校したら理想的な教室になった【コロナ対策】

 tohruyoshino.hatenablog.com

 

臨時休校中の学校の様子は上の記事から。

 

分散登校の開始

6月からいよいよ学校が再開になった。2月の末から休校したので、なんと3か月ぶり。

毎年、夏休みで長期に休むことはあるけど3か月授業しなかったのは初めてだな。

 

うちの学校では午前と午後の2グループに分けて分散登校を行うことになった。

兄弟は同じグループにしてねという条件だったので、グループ分けは難航するかと思いきや、案外すんなりいって驚いた。

 

実際に登校したら、3か月ぶりにも関わらず、子供は案外普通であった。

ちゃんと登校するし、行儀よくしている。緊張も多少あったのだろう。

 

しかし登校&授業は3か月ぶり、担任としっかり向き合うのも2か月振りくらい。

そのため最初の1週間はとにかく優しく、温かい雰囲気作りを心掛けた。

黄金の3日間?知るか。非常事態じゃ。

 

時間がきつすぎる

分散登校で午前午後の2回、子供が来る。

 

児童の下校後は消毒作業を行う。

午前グループの下校時間から午後グループの登校まで、間の時間は約10分。

この間に机、蛇口、扉など指定の場所をアルコール消毒していく。

時間はかなりきつい。

 

毎日2展開する関係で休み時間も無し。

隙間時間はほぼ0。

提出物の確認や宿題の丸付けの時間が殆ど取れない。

何とか給食中に必死に確認をしている。

 

児童の健康状態を把握したいので、個別に話したかったが、その時間もとれない。

給食の時にちょくちょく話して何とか頑張って聞き取りをした。

 

とにかく時間が無い。

子供と雑談することもままならない。

時間だけはキツイ。

 

反転しよう

分散登校の関係で授業は30分で1時間授業となった

授業時間が15分削られるが、内容的には概ね網羅しなくてはいけない。

 

そのため反転授業を取り入れる

分散登校のおかげで子供に空いている時間も増えたので、家庭で進められる分は宿題として出す。

 

最初は課題ができるか心配であったが、子供もたくましいもので、ほぼ全員がちゃんと課題をやってきている。

再開から2週間たって、そろそろ平常運転に戻ろうかという雰囲気も出てきたが、このまま反転授業は続けていくつもり

学習効率が圧倒的に高くなっている。

 

人数は最高

1クラスを2グループに分けているので、授業中通常の半分しか児童はいない

 

そうなると机間指導もとにかく捗る。目が行き届く。

全ての時間が今までより圧倒的に短縮される。

児童の集中度も上がっている気がする。

 

そう考えると1クラスの限界人数ってやっぱり20人くらいなんじゃないかな

クラスの大きさ的にも非常に快適に空間を行き来できる。

隣のクラスに昨年まで不登校気味の児童がいたが、余裕で毎日来ている

どうやら人数的に落ち着くらしい。

 

グループもできるし、目は行き届くし、人数的にはここが一番いいなと思う。

 

教材研究は分担で

うちの学年では分散登校中は授業内容を全て揃えることにした。

「揃える」ことに関してはTwitterでガーガー言われていたが、個人的には特殊状況なのでクラスの個性を出すより、学年全体で動けることのメリットの方が大きいと思う。

そもそもうちの学校の分散登校システムだと各クラスの個性を出す暇が無い

 

授業内容を揃えることの一番のメリットは、教材研究を分担できることだ。

主任が国語、後輩が社会、吉野が算数と理科の教材研究をして他の人に教えている。

こうなると吉野は国語と社会のことは殆ど考えなくていいので、楽である。

 

思ったよりホワイト

なんやかんやで分散登校開始から2週間たったが、何とかなっている。

むしろ毎日定時ちょいくらいに退勤できているので、前より健全なくらいだ

 

通常登校になってくるとまた変わってくるだろうが、分散登校の知見が溜まってきたので、このまま応用していけると良いなと思っている。

 

【研究】一筆書きの星はどこから書くか問題【ツイッター】

はじめに

 

昔、一筆書きの星は人によってスタートの位置が違うことを知り、大変驚いた。

その時はmixiだったかな、そこで調査をしたわけだ。

案の定、人によってスタート位置が違った。

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今回はツイッターのフォロワーも増えてきてサンプルがたくさん取れそうな感じもしたので、もう一度調査をしてみることにした。

 

方法

Twitterの投票機能を使い、調査を行う。

基本的にスタートが決まればそこからは一筆書きなので、どこからスタートしどこへ行くかを調べる。

 

5つスタートがあって、それぞれ2つの方向に進むので、選択肢は全部で10通り。

Twitterの機能では1つのツイートで4通りしか投票できないため、3件連投し、10通りから選べるようにする。

Twitterの機能では4つの投票率が表示されるが、今回は3連投で調査するため、投票率から票数を調べていく。

 

結果

 

このままでだとそれぞれの投票数が分からないため、投票数を調べる。

以下は投票件数と全体における割合である。

  1. 1→4 ・・・120件(29.8%)
  2. 4→1 ・・・ 71件(17.6%)
  3. 1→3 ・・・ 19件( 4.7%)
  4. 3→1 ・・・  5件( 1.2%)
  5. 4→2 ・・・ 14件( 3.5%)
  6. 2→4 ・・・  6件( 1.5%)
  7. 2→5 ・・・  9件( 2.2%)
  8. 5→2 ・・・139件(34.5%)
  9. 3→5 ・・・ 10件( 2.5%)
  10. 5→3 ・・・ 10件( 2.5%)

考察

1→4、4→1、5→2で始まる人が多く、合計すると81.9%。

全体の8割はこの3パターンのいずれかからスタートする。

 

スタート位置で見ると以下のようになる。

  1. からスタート ・・・139件
  2. からスタート ・・・ 15件
  3. からスタート ・・・ 15件
  4. からスタート ・・・ 85件
  5. からスタート ・・・149件

特に1,4,5でスタートすることが多い。

理由は以下の2点であると考えられる。

 

右利きの人が多い

世の中は右利きの人が多い。

その人たちが書くならば2,3からのスタートは不自然な動きになり書きにくくなる。

そのため左寄りの1,4,5にスタートが集中したのだろう。

 

文字の書き方に準じる

1つ目の理由とも重なるが、多くの人が日本語の文字の書き方に準じて星も書いていると考えられる。

多かった3パターンの中でも1→4と5→2は特に日本語の文字のパターンによく出てくる。そのためこの2つに集中したのだろう。

 

ただこの場合は5→3のパターンが漢字でいう右払いに相当するため件数が増えてもおかしくないように感じられるかもしれない。

しかし常用漢字を思い出してもらえれば分かる通り、横線と右払いが同時にある時に右払いから先に書く漢字は殆ど無い。

(因みに「殆ど」と言ったのは調べるのを怠っているからだ。感覚的には全くない。)

そのため5からスタートする時、殆どの人は2へ進むと考えられる。

 

1→4と5→2でやや5→2の方が多かったのも、この点が関係しているかもしれない。

 

結論

一筆書きの星の書き方で最も多いのは5→2のパターン。

殆どの人は1→4、4→1、5→2のいずれかでスタートする人が多い。

それは右利きの人が多いことや漢字の書き方に準じているからと考えられる。

 

終わりに

今回の調査で一番多いパターンを知ることができ、長年の疑問が晴れた。

吉野は1→4のパターンで描いていたため、このパターンが一番多いだろうと思い込んでいたが、そうではない事実が分かり、新しい知見が得られた。

 

また書き方の件数の偏りから文字の書き方との関連性が如実に出ていることが分かった。

そのため一筆書きの星は絵というより文字の延長として描かれているのではないか。

 

今回は考察の中で右利きの多さを上げたが、それならば左利きの人で分けて考えると違う結果が出るかもしれない。

しかし左利きも漢字の書き順は右利きと同様である。

右利きと左利きでの違いを集めることで、一筆書きの星を書く際は利き手の影響が強いのか、文字の書き方の影響が強いのか確かめることができるのではないか。

追加の調査が必要になる。

 

謝辞

今回の投票に参加してくださった皆様、ツイートを拡散していただいた皆様にこの場を借りてお礼を申し上げます。

【インク先生】いい人ってどんな人【らの時代】

先日、インク先生主催「らの時代」に参加してきた。

面白かったので、備忘録も兼ねて内容と自分の意見をまとめようと思う。

 

因みに「インク先生とは?」という方はこちらをどうぞ。

tohruyoshino.hatenablog.com

 

 

いい人ってどんな人 

第2回「らの時代」のテーマは『いい人ってどんな人?』

抽象的で少し難しいけど、様々に考えていくと面白いテーマだ。

 

良い人は都合の良い人? 

最初に出てきたのが「都合の良い人」ではないかということ。

「良い人」というのは自分から見た視点であって、他の人にとって「良い人」であるかは分からない。その意味では、言い換えれば自分にとって都合の良い人を「良い人」とみなしているのではないか。

しかし「誰にとっても良い人」というのはいるような気がするとも。

 

「都合の良い人」は自分にとって良い人だろう

ここでいう「都合の良い」とは、自分のことを肯定してくれたり、一緒にいて楽しかったりという意味だ。

 

「都合の良い」という言葉は定義を考えると少し変わってくるところもある。

いわゆるいじめ構造の中で加害者が被害者から金銭をタカったりするが、加害者から見れば被害者は「都合の良い人」になる。

今回の都合の良さは上記の例とは異なり、もう少し前向きな意味合いがありそうだ。 

その意味では「都合の良い人」は「良い人」に分類されるだろう。

 

では誰にとっても都合の良い人はいるのだろうか。

話の中では誰にでも良い人はいるんじゃないかと出たが、おそらく答えはNoだ。

 

例えば前の職場にとても穏やかで信頼を集める人がいた。

重要な仕事も引き受けるしどんな人にも誠実に対応してくれるので、誰からも好かれていた。

この人は恐らく殆どの人にとって「良い人」だろう。間違いない。

 

しかし穏やかで周りに協調する分、強行や決断することは不得意であった。

決断が迫られることが多い場にいたら、この人は「良い人」になれたかは分からない。

仕事ができないお荷物として扱われていたかもしれない。

 

「良い」というのは相対的尺度だ。

ある側面から見たら「良い」と思われることも、反対の側面から見たら「悪い」に変化する。

「誰からも良い人はいるか」という問いに感覚的には肯定できる。

しかし絶対的に「良い人」というのはいないだろう。

 

良い人と好きな人は一致するか

良い人と好きな人は一致するだろうか。

そうあってほしいという思いはあるが。

両親が金銭的に保障とかしてくれたから「良い人」なんだろうけど、好きではなかった。だから一致しないこともあるだろう。

 

この話はちょっと見方が変わってきている。

今まで「良い人」という言葉の中で議論があったが、もしかしたら「好きな人」は良い人かもしれないという話になっている。

 

これの答えもおそらくNoだろう。

引用の親の話でも分かる通り、少しずれが出てきそうだ。

「好き」という言葉も相対的な尺度をもつので、「良い⇔悪い」と「好き⇔嫌い」を縦と横軸において考えると分かりやすいかもしれない。

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この図の中で「良い人」が全員1に入るかと言ったら、それは無いだろう。

先程の両親の話のように「嫌いだけど良い人」、つまり3に入る人がいるはずだ。

 

他にも厳しい鬼コーチのような人は、「自分の力を伸ばしてくれる」「勝たせてくれる」という面で目標を達成させてくれる”良い人”に入りそうだが、嫌われることも大いにありうる

 

「先生」は良い人っぽい

良い人の要素に真面目とか自己犠牲という言葉が出てきた。

それを集めていくと、先生って「良い人」っぽい感じがする。

でも確かに部活とかに打ち込んでくれる先生は生徒や保護者にとって「良い人」かもしれないが、部活に時間を割かれると家族にとっては「良い人」ではない。

 

何をもって良いとするかが難しいが、上の話だと確かに先生は「良い人」の要素が多いかもしれない。

先生という職業に求められる要素と「良い人」の要素が重なる部分が多いのだろう。

職業的には「良い人」であるかもしれないが、個人個人が先生として求められる像を満たしているかは分からないので、「先生が良い人」というのはちょっと個人によるとしか言えない

 

また上の引用文のように『保護者や生徒にとって良い人であっても家族にとっては良い人ではない』とあるが、保護者と家族は違う立場の人間なので「良い先生だけど、良い伴侶(親)ではない」と言うのがより正確だろう。

 

ここからもやはり普遍的な「良い人」を見付けるのは難しいということが分かる。

 

テーマはどこから

今回のテーマだが、ふてくされている児童や生徒に対してどう向き合うかというところから始まり、「良い人とは何だろう」と疑問に思ったところから生まれている。

その子にとっての良さとは何だろうか。

子供にとっての「良い人」と大人にとっての「良い人」の感覚はだいぶ異なる。

子供は、思っているより大人だが、思っているより子供だ。この匙加減が難しい。 

 

よく言われる「あなたのためだから」という言葉にはうさん臭さがある。

本当にその子にとって良いかどうかの正しさを大人は決められないはず。

世代ごとにやるべきことがあり、やるべきことを学ぶことは大切だ。

しかし既存の学習内容が必要になるかは子供の将来次第になる。

既存の学習・学歴は将来のセーフティネットとして役割がある一方で、他のことを行う時間を奪っている可能性もある。

議論の中にあった「あなたのためだから」という言葉のうさん臭さは納得できる。

正確には「(私が考える)あなたのためだから」だろう。

「あなたのため」という言葉は、発言者の論理を相手に押し付ける時のカモフラージュの役割を果たしている。

 

子供にとって良いということ

ここから「その子にとって良い人・良いこと」の話が中心になる。

既存の学習内容がその子にとって必要なのか。

既存の学習やシステムが別の才能を奪っているのではないか。

学校の先生はその子の才能を見付けることができるか。

 

これらの話は「らの時代」以外の場所でも盛んになされているだろう。

教育者にとって普遍的なテーマの一つであるように思う。

 

まず既存の学習内容がその子にとって必要かということは、我々は子供に寄り添って考えがちだが、社会の面から考えてみたい。

教育の目的は教育基本法第1条に書かれている通り「人格の完成」であり、一人前の国民を育成することにある。

 

そのため義務教育では一人前の国民になるために必要な内容を全て網羅している。

つまり義務教育段階で学習する内容は社会に出るために絶対的に必要であり、ある個人にとって必要かどうかという議論は本来成立しない。ただし学習の場が学校である必要は無い。

なので既存の学習が必要かという問いにはYes。とはいえ、これは理想論だ。

 

次に義務教育の内容を学習させることで他の才能を奪っているのではないかということだが、これは可能性としては大いにありうる。

しかし先述の通り、義務教育段階の学習は国民として必ず身に付けるべきものであり、国家としては最優先事項だ。そのため勉強させることは全く持って無駄ではない。

 

他の才能を開花させるのは大いに良いと思う。

しかしそちらに割いた分、逆に失われるものもあるわけだ。

失われたものを更に別のところで獲得する、或いは失われていても良しとする社会全体の受け皿があるか、これも疑問が残る。

 

才能の話から、先生はその子の才能を見付けられるかということだが、これは難しい。

私が子供によくする例え話があるが、以下のようなものだ。

君たちには必ず何か才能がある。

だが学校という場で才能が見つかるかは分からない。

計算がすごく速いとか、運動が抜群にできるという才能はすぐに見付けられる。

でもカウボーイみたいに投げ縄をして馬を捕まえるのがスゲー上手いという才能のようなものは、学校でも、或いは生きているうちにすら見つかるか分からない。

君たちには絶対何か才能がある。一部の子だけ優れているということはない。

だから早く見付けられるように色々なことの挑戦しなさい。 

 

学校内で見付けられる才能は一部だけだろう。

学校は社会の一部でしかないから、それは仕方ないのではないか。

学校は国民として必要なことを教える場所で、才能を見出す機関としてはできていない。

だからこそ先生は見つけ出した才能は潰してはいけない

でも学校の最優先は一人前の国民の育成だから、そこのバランスが難しい。

 

失敗って何だ 

親ガチャ 先生ガチャ

教員は学校の世界の大人。子供は学校の外の世界から来る。

子供が「絵を描く」とか学校の外の世界に踏み出そうとしたら、先生は「子供が選ばなかった世界の人」になってしまう。そう考えると、子供の伴走者(サポーター)はやっぱり親になるのではないか。

そうなると親と子供の意思に齟齬が出ると困る。

 

多種多様な子供たちのニーズに全て対応するには、先生は少なすぎる。

やはりその子に対応するのは、その子の保護者だろう。

 

そして子供に責任が負えない限りは、最終決定者は保護者になる。当たり前ではあるけど。

そう考えると保護者の裁量で子供の方針が決まる。子供から見れば運になる

この話を聞いていて思ったのが、固定級とか勧める時の面談に似ている

結局最後は保護者の判断になるわけだ。

 

失敗させよう

伴走者が子供のことを思えば思うほど、保守的な決定をしていく気がする。

失敗しないための線をどこまで引くか。

本当は大人は無責任な方が良い。

子供には自分の力で立つ力を身に付けてほしいと思っているし、教員は案外そういうことをやっているかも。

この辺は良い上司のマネジメントの話と被る点が多い。

良い上司は手取り足取り教えず、部下にどんと仕事を任せる。

それで失敗してしまったら、部下をケアして、失敗をフォローしておく。

 

先生も同じだが、細々とした点ではなく最低限外さない場所を作っておき、後は任せた方が良いのだろう。

 

失敗の生産

「子供の失敗=悪いこと」 という方程式は周りが作っているのでは?

本来、子供は失敗と思っていないかもしれない。

大人が想定していない所に行ったときに、大人から「失敗」のフィードバックを受けて、失敗と考えている。

これは確かにありそう。何を失敗とするかは本人の尺度であるはずだ。

ただ社会に反する行為は本人の尺度でなく失敗にカウントしていいだろう。

 

先程の良い上司のマネジメントとも被るが、個人的に良い教育は放し飼いだと思っている。

この範囲なら自由にやっていいよという枠組みを作ってあげる。

場合によっては枠組みを広げても良いし、縮めても良い。

 

伴走者の正体

伴走者は子供にねらいを聞いて、方向をハッキリさせてあげて、その後フィードバックしてあげると良いのかな。

学校だったら、子供に評価方法を事前に聞いて、そこに達成しているかをそれぞれ見て評価してあげる必要があるのかも。

 これまでの議論の中で出てきた伴走者をまとめたものがこの時に出てきたが、これはコーチングの手法そのもの

やはり教育が目指すべき場所はコーチングの要素が強いのだろう。

あと引用部の評価方法は、形成的評価の一部になるような気がする。

 

いい人ってどんな人

この問いの答えは難しい。

最初の方でも述べたが、「いい」というのは相対的尺度なので、「いい」という言葉の定義をもう少し詰めていく、また別の面も見えてきたかもしれない

 

ただ議論の中で分かることは、大人にとっての良い人と子供にとっての良い人は違いそうだということ。

教員であるならば、子供にとっての良い人とはどのような人か考える価値はあるだろう。

 

次回はどんな話になるか。また楽しみだ。

【学校教育】テキトーな宿題ほど子供が食いついた【家庭教育】

若い頃、自分がやりたいことをやりたい放題やっていた時期があった。

その中の一つがこの宿題だ。

 

面白い宿題をやろう

当時の吉野のクラスは漢字の進行がやや速く、7月に入るころには漢字ドリルや計算ドリルなどのよ出される宿題類がすべて完了していた。

宿題が無ければ無いでいいやとは思っていたが、周りのクラスとの歩調合せであったり、何となくもったいない感じがあったので、何か面白い宿題を出そうと考えていた

 

そこで生まれたのがこの宿題である。

「一週間分の宿題量にあたるものを何か自由に行い、一週間後に提出すること」

これだけ言われても子供はイマイチぴんと来ていなかったので、確か「1週間でできる自由研究」と伝えた気がする。

 

内容としては、何をしても良い。

普通に何か学習に取り組んでも良いし、ゲームでもいいし、好きなことをやってきてと伝えた。

ただ体験・経験・工作などの宿題の場合は、得られた知見や学びを書面で提出することという条件も付けた。

 

とにかく「好きなことを1週間やって、自分の中で学びになったことをまとめておいで」ということである。

 

宿題の意図

この宿題の教育的な意図は全くない

宿題やるなら好きなことやった方が面白いよなという感覚で出している。

これもどこぞの人体実験に当たるのですかね。ふふふ。

 

1週間の中で宿題の管理も全くしていない。月曜日に出したので翌週の月曜日に持ってきてねという感じで出したはずだ。

 

教育的な意図は無いが、この発想自体は吉野の趣味や感覚から生まれている。

というのも吉野は研究が好きなのである。学会に論文を出して発表したりもしているくらい好きだ。

なので子供にも何か好きに研究をさせたかったので、こんな宿題が出来上がった。

 

完成形

1週間宿題だが途中の経過管理は全くしなかった

管理は全くしなかったが、子供たちはそれぞれちゃんと進めていたようで、途中経過を教えてくれる子もいた。

 

この期間中に違う用件で保護者に電話をしたことがあったが、「例の宿題でめっちゃデカイ工作してますよ~」なんてのも聞けた。子供達なりにコンスタントに取り組んでいたようだ。

 

翌月曜日。提出日である。

バラエティに富んでいてすごい。収拾がつかない。収拾する気も無いけど。

 

思い出せる限りでは、

  • 毎日運動に取り組み記録を伸ばす子
  • めっちゃ漢字の練習をする子
  • どでかい工作をしてくる子
  • 絵日記を書く子
  • 料理を何回もして、レシピと感想を書く子
  • 実際の野球選手とパワプロデータを比べる子
  • 何枚もの折り紙で大きな鞠を作る子

などである。

確か理科っぽい研究をしている子もいたが、具体的に何をしていたかは忘れてしまった。

 

実に面白い

こちらが想像していたものを遥かに超えて色々とやってきた。

皆で見合った後に吉野がコメントをつけて返却したが、コメントを書くのも非常に楽しかった覚えがある

 

出してみて

軽い気持ちで出した宿題であったが、想像以上に面白い結果に終わった。

子供のやっていて楽しかったようで、「またあるならやりたい」と言っていた。

吉野も子供も楽しいハッピーな宿題であった。

 

もう少しこの宿題を振り返ってみると以下のようになる。

 

まず1週間という期限が良かったと思う。

1か月とかだと長くてモチベーションを保つのが難しいし、3日だとやや短い。

1週間だと題材を悩んで、準備して、実行するというプロセスの単位時間としてちょうど良いように感じた。

 

次に題材を自由にしたこと。

実験、工作等やり方はすべて任せた。内容に関してもすべてフリーにした。

初めての試みだったので、制限をかけないことで子供のやる気を引き出せたのだろう

もし学習系に縛っていたら、ここまでのやる気は出せなかったと思う。

逆に継続してこの課題を取り組むなら、「国語に関すること」などを条件の一つとして加えると、より効率的な学びができる気がする。

 

後は子供に知見を書かせたこと。

流石にやりっぱなしだと良くないなと思って、書面などで知見や学びを書かせたが、子供にとっても自分の学習を振り返る良い機会になっていた。

運動結果を記録した子などは、「1週間でも伸びる」とか「このペースなら、これくらい頑張れば目標達成できる」など、自分のデータを振り返りながら分析もしていた

これを継続すると、生活とか総合でよく言われる学びのスパイラルが出来上がるはず。

 

終わりに

思い出したら、またやってみたくなってきたな。

 

個人的な感想としては、子供は学ぶことは嫌いではないということを改めて実感した。

大人もそうだが、好きなことをやっていいよと言われれば、継続してやりたがるのだろう。

 

ただ学びの質を上げる方法は教えてあげないといけない

今回は振り返りをすることは条件にしたが、さらに学びの質を上げるなら、何らかのフォーマットを用意したほうが良い。

いわゆるポートフォリオになるものだ。

 

枠は決まっているけど、内容はフリー。

それが一番良い形になるだろうし、そもそも世の中の研究はそうなっている

 

今回は1週間で取り組んだが、今度やる時は2週間でやってみたい。

1週間で中間報告。それを受けて2周目をどうするか決めて実施する。

2週間くらいだと期間的にもちょうど良くなる気がする。

 

最後に宿題と言えば、副校長と以前話したことが印象的に残っている。

副校長が担任だった頃、同僚と話したことで、同僚が言うには

”子供に宿題を出しなさい”と言うが、我々は『子供が出したくなる宿題』を出しているだろうか

とのことだ。

 

宿題に関しての議論は色々とあるが、我々教員にも大きな宿題が課されているようだ。

【臨時休校】臨時休校になってから、今日までぼんやりと働いていた【コロナショック】

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こんにちは、新天地

吉野は今回異動だったので、4月1日から新しい学校で働き始めた。

 

4月1日といえば、緊急事態宣言が出るのではないかと言われていた時期で、新学期は始まるのか、始業式や入学式はできるのかといった話題でもちきりであった。

新しい場所に緊張しているのに加え、さらにどうなるか分からない状態にどうしたもんかなーと変な疲労感を募らせていた。

 

異動者の紹介の後、社長からの今後の連絡があった。

 

「どうなるかは分からないが、多分休校は続くと思うから、午前の内に教材を発注して。自習できるドリルとかそういうの多めで。」とのこと。

 

なので午前中は会議などは全部予定変更して、教材の選定と発注。

後で聞いた話だと、午後から発注した学校は教材が間に合わないと言われたらしいので、社長はなかなか先見の明があるなと思っていた。

 

休校は続くよ、どこまでも

午後に社長が戻ってきて、職員への連絡。

 

臨時休校が決定。

始業式・入学式は実施し、その後は週1回程度の登校日で課題を出すようにすると。

 

個人的には妥当な線だなと思いつつ、少しホッとしてしまう。

今年の準備期間は3日しかなく結構きつかったので、少し伸びることに安心した。

 

翌日から、6日の始業式に渡すものや課題の準備に取り掛かる。

入学式の準備もあったので、バタバタと1日が終わる。

 

入学式の準備は普段6年生が手伝いに来てやっているが、登校できないので職員で全て行った。

大人だけだと非常にスムーズに進むので、毎年手伝ってもらっているけど、あれはやはり6年生のための準備なんだなと改めて実感した。

 

さて始業式に渡すものの一つに学年便りがあるが、4月1日時点ではどうなるか分からなかったので、4月2日から作り始めた。

2日から作り始めたものの、変更、変更アンド変更で結局発行するまでに6回くらい作り直すことに

この時はそれくらい状況がどんどんと変わっていた。

 

因みにこの頃吉野は前任校から持ってきていた自分のデータを校内のサーバーに入れようとしていたが上手くいかず、情報環境の荒野感に絶望してた

 

あーした 天気になーぁれ

日々、状況が変化していくので、準備はしたが入学式ができるかは分からない。

世田谷とかはこの時点で始業式・入学式が中止になっていたので、万が一と言うことはあり得る。

 

なるようになるだろうとは思っていたが、土曜日のお昼ごろに学校からメールが届く。

保護者にも向けた全校メールだが、入学式の場所が体育館から校庭になるとのこと。

 

3回くらい見なおしたけど、理解までに時間がかかった。

え、校庭で入学式…?

とりあえず月曜日に学校に行けば分かるかな…?

 

月曜日を迎え、午前中は始業式。

着任式も短く済ませるので、挨拶などは無し。

担任発表される前に並んでいる自分のクラスの子を見たが、なかなかパンチが効いた子がいたので今年も楽はさせてもらえないなと思っていた。

 

始業式後は教室に行くものの、配布物を入れるなど最低限のことだけで、さようなら。

名前くらいは覚えてねーとお願いしておく。

 

午後は入学式。

校庭に椅子を並べたり、パネルを支えにして紅白幕を張ったり、史上初の準備

合言葉は「初めてでこんだけできてれば十分だろう!」と「1年生は本当の形を見たことないから!」。

 

準備の後、午後から入学式が行われたが、想像以上につつがなく終わった。すげぇ。

外でやっても何とかなるもんだねと皆で話しながら、でももう絶対やりたくないとも話した。

 

この日の最後の打ち合わせで知ったことだが、入学式の実施要項は計5回変更があったらしい。

教員ならこの絶望感は分かるはず。

 

在宅勤務で何をする?

翌日の火曜日に出勤したが、いよいよ緊急事態宣言が発令。

それを踏まえ児童の登校日は無くなり、職員は基本的に在宅勤務に。

 

登校日に渡すはずだった手紙やドリルは、郵送にて全家庭に配布することになった。

とはいえ郵送は1回のみ、郵送できる重さは一人250gまで。

うちの学年は足したり引いたりしながら248gでフィニッシュ。

ニアピン賞もらっても良いよね。

 

以降は1週間に1回、ホームページで課題を提示していく。

でもそれは主任がやってくれるので、ラインで相談はするが、出勤の必要は無い。

郵送作業で1日だけ出勤をしたが、その後はすべて在宅勤務。

 

この時期のツイッターでは「臨時休校になっても教員は忙しいんですよ!」という書き込みが多く見られたが、吉野に関して言えば、在宅勤務になってやることが殆ど無くなってしまった

教材研究とかあるだろうと怒られるような気もするが、どの単元を何時間でできるか全くわからない状態で授業の組み立てはできない

やれなくはないけど、そんな宙ぶらりんの状態で無駄になるかもしれない教材研究をやるほど吉野は意識の高い教員ではない。許せ。

 

とりあえず異動して全く分からない土地だったので、自治体について色々と調べた。

グーグルマップで学区内の見回りもしたし。

 

前の職場の同僚達もやることが無くなってしまったらしいので、この時期はやたらとエクセルでシステムを作ったり、直したりしていた。

そう考えると、まあ働いていなくはなかったのかな?

この時期にできたのにこんなのもある。

tohruyoshino.hatenablog.com

tohruyoshino.hatenablog.com

 

テレワークの到来と吉野の失敗

在宅勤務にうんざりした頃に、なんと市内のパソコンにテレワークシステムが入ると情報が流れてきた。

前の自治体では既にテレワークができていたので、こちらでできないのが残念だったのだが、これで変わらず家でも仕事ができることに。

システムが入ることになったのはコロナおかげと言うべきかな。

 

システムに繋ぐ手順書を見ながら、ぼんやりと思ったのが、この手順には間違えやすいポイントが多いなということ。

前任校でも情報関係の仕事をよくしていたので、間違えやすいポイントが感覚的に分かるようになっていた。

 

そして導入日。案の定、職員のLINEでは混乱が起きていた

因みにうちの学校では緊急事態宣言が出た時から、職員連絡のためにLINEグループが作られていた。

今も管理職からの業務連絡がちょこちょこと入る。

 

吉野も実際に接続を済ませ、色々な確認をした後、職員LINEに確認するべきポイントを列挙していく。

接続完了報告が続々と増えていく。

 

やってしまった。失敗した。

まだ目立つようなマネはしたくなかったのだ。しかも情報関係で。

 

吉野はやらかしがちなので、異動先では信頼を得るまで大人しくするつもりであった。

1年くらいは与えられた仕事を目立たずこなす予定だったのだ。

 

が、この日を境に職員の間に「お、吉野は情報関係に強そうだぞ」というのが知られてしまった

なお5月現在、職場では「情報の分かんねーことは吉野にも聞いてみよう」という風潮が生まれ始めている。どーして、こうなった…

 

テレワークができるようになり、とりあえず学級の準備を進めることにした。

詳細な名簿とか雑多な物は今のうちに作っておいた方が良いに決まっている。

管理職からは自己申告も作っておいてねと連絡が来たし。

 

とはいえ吉野の状態はこんな感じである。

 

車輪の再発明は意味が無いか?

4月末になり管理職から連絡。

自治体で授業動画を作ることになったので、作ってくれる人を募集するらしい

 

授業動画の件は各地で行われているが、民間には太刀打ちできないようなものが大量に出来上がっていることは知っていたので、やりたくはない。

今回は有志で作られるので、吉野はスルーした。

 

そもそも自治体で作るということは他の学校の教員と連絡を取らないといけない。

異動したてで校内の職員すら覚えきれてないのに、他校まで手は伸ばせない。

 

そしてどうせこの仕事は吉野のところにも、何らかの仕事が回ってくる

そんな予感がしたので、動画作りはパス。

 

この頃、政府が緊急事態宣言の延長について判断すると報道があり、自治体としても色々と動いていた。

とりあえず5月7、8日は休校延長というのは決定したので、そんなに焦ってはいなかった。

 

GWに入る直前、校長会などがあったようで、GW後に1日だけ分散で登校日を設けることになった。

職員もそれに合わせて、分散で出勤し準備を進めてほしいとのこと。

 

うちの学年は7日が分散出勤日になった。

吉野の心中としてはこんな感じであった。

 

うちの学年は3クラスなので担任3人だが、吉野以外の2人は動画作りをすることになっていた

分散登校の準備をした後に2人の動画作りの手伝いをする。

 

教員の授業動画作りは”車輪の再発明”とさんざん言われていたが、実際に作ると良いところも分かった。

あと教員のパソコン技術についても分かったので、それはまた別の記事にしようと思う。

 

出来上がった授業動画は今週から毎日配信している。

先週末から今週の始めまでは動画の編集やアプロードなどでやたらと吉野が呼ばれる場面が多く、予想通りという感じであった。自分で作らなくて正解。

 

吉野、wifi業者になる

授業動画を配信するのは良いが、家庭によっては見るインフラが無い場合がある。

そのため校内のiPadが貸し出されることになった。

もちろんネット環境も無いといけないので、それは教委からポケットwifiが来た。

 

GW直後までは副社長がこの業務を行っていたが、動画配信の件も重なりパンクしてしまったようで、吉野に泣きついてこられた。

特に断る理由も無いし、視聴覚担当なので仕事を引き受け、iPadとポケットwifi貸し出し業務を引き継ぐ。

 

当日は借りに来た保護者に簡単な使い方と接続方法を話すのだが、貸し出す台数が70台近く。

しかも密にならにように、1回の説明では1、2人しか相手にできない

 

教員スキルってこういうところでも発揮されるんだと、妙な発見をしつつ業務を終わらせる。

 

説明は吉野が全て行ったものの、他の職員も何人か手伝ってくれていた。

その人達曰く、「吉野さんがいなかったら、どうなっていたことかー」。

いやいや、絶対何とかなるから。

 

文科省はキレたけど、ごめん、タイミングが悪い


2020年5月11日 学校の情報環境整備に関する説明会【LIVE配信】

 

ところで今週の最初に出たこの動画はもう見ました?

文科省の高谷課長が今までの経緯と現状について、滅茶苦茶分かりやすくキレながら説明をしてくれていました。

高谷課長の言葉は、我が意を得たりといったところでとても心に響いた。

 

が、一方でオンライン授業をどうしようかなと迷っている自分もいる。

もし前任校であったら4月の最初の休校の時点でオンライン授業に舵取りをしたと思う。

インフラはあるし、発言力もあったしね。

 

でも今は状況がなぁ…何より気になるのは6月に多分再開するんだよね

今から準備を整えても、すぐに再開。

無駄ではないけど、ちょっと労力と結果が見合わないような気がする。

管理職とかから要請があれば、すぐにでも実施するけどね。

 

とりあえず今は6月再開に向けて、また準備だな。

 

tohruyoshino.hatenablog.com

 

【教育】インク先生のツイート行数を限界突破させたい【ツイッター】

インク先生って誰?

最近フォローした人に『インク先生』(@firesign_ink)という方がいらっしゃる。

 

小学校の先生らしいが、なかなかに独特な感性をもっている。

ツイッターで、他の人との絡みを見ていると、よくそのような発想が出てくるなぁといつも思わせられる。

最近のだと、これとか。

 

絡みにいくと割と絡んでもらえるようなので、知的な遊びをしたい人は行ってみるといいかもしれない。

 

あとnoteも書かれているが、こちらも面白い。

最近の中で面白かったのはこれ。

note.com

 

見た瞬間思ったのが「あ、これは文学研究の対象になるやつだ」ということ。

我々は早くインク先生の感性に追いついた方が良い。

 

さてインク先生と言えば、最大の特徴はツイートが2行までと決めていることだ。

確かにガーっと見ていってもツイートは2行以内に収まっている。

twitter.com

 

じゃあ3行目以降は?と言えば、「ツイートの3行目」というブログになっている

毎朝、インク先生が思ったことが丁寧に書かれているので、一読の価値がある。

やっぱり最近、共感したのはこれですかね。

taishiowawa.hatenablog.com

 

他にも先生らしい教育関係のことも多く書かれているので、教員ならば読むと面白いのではないだろうか。

では、なんでツイートは2行までしか書かないのと言われれば、本人が記事を書いているので、そちらを見たほうが良いだろう。

 

いたずらごころ

さて、そんなインク先生のツイートを見ていて、ふと思った。

3行以上にしてみたいなぁ

 

だって「2行まで」って決めているのだから、逆に3行以上になったら驚きじゃない?

勿論、何の意味も無いんだけど、なんか面白そうじゃない?

 

吉野は昔からこういう「馬鹿だなー」と言われるタイプのことを真剣にやるのが好きなので。

 

やってみよう

インク先生のツイートをざっと追いかけた感じでは確かに3行以上のツイートは無い。

そこは自分で宣言しているだけあって、流石だ。

 

因みに3行目の定義を確認してみる。

上のツイートを見ても分かるように、3行目というのは実際の行数であって、文の数とは関係が無いようだ。

なので今回は3行目をいかに表示させるかがポイントになる。

 

ツイートを追いかけていくと、あることに気が付く。

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下のツイートをタップすると

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お!2行目の文字数が増えてるぞ!

ということは、2行ギリギリのツイートをタップすれば、3行目が表示されるはず!

 

じゃあ、これとかどうだろう。結構2行目ギリギリまで来ているから行けるのでは。

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タップ!

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ギリギリ収まってるー!

くそー!くやしー!

 

というか純粋にこの言葉良いよね。

私が子供に社会と理科の違いを話す時は、

自然を科学するのが理科。人を科学するのが社会と伝えている。

 

さて次のツイートを狙っていく。

これとか2行目ギリギリだし、長いから行けそう!

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タップ!

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きたー!3行目を出すことに成功!

インク先生の2行の壁を破ったぞー!

 

純粋に破りたい

とりあえずタップすると敗れたけど、最初の画面で3行目を表示させてもみたい。

タップして分かったが、要は一文字が大きくなれば押し出されて3行目に行くわけだ。

 

だったら設定の文字を大きくしちゃえばいいんじゃね?

設定を変更して…ハイ。

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3行目きたー!

 

因みにブラウザを300%拡大して更に行数を増やすという、クソ技もある。

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 終わりに

とりあえず変なことをすれば、インク先生の3行目を出現させることはできた。

最後は5行目まで出現させることができたので、これはギネス記録をもらっても差し支えないのではないかとすら思っている。

 

しかし何のためにやったのかと言われれば、自己満足としか言いようがない。

ふと思ったことは実行に移す。それではダメかな?

 

この記事を書くためにインク先生のツイートを結構遡ったが、確かに本人が言われている通り、言葉を選んで書いているのがとても伝わってきた。

吉野もこれくらいちゃんと言葉を選んで書けるように見習わなければ。

 

最後にインク先生のブログを貼っておくので、皆さんもぜひ読もう。

taishiowawa.hatenablog.com

 

※この記事にはインク先生を貶めたり、中傷する意図はありません。悪しからず。

【教育】教員の評価観を理解すると、新任の先生に噛みつく人の心理が分かる【働き方】

先日も取り上げたが、近ごろ自分のTLで人気の先生がいる。

 

見た瞬間に思ったのは、「すげー。俺が新任の時は全然こんなこと思ってなかったなー」という感じであった。

吉野は二束三文で売られる平々凡々な教員なので、こんなに意識の高いことは考えておらず、毎日どうやって生き延びるかを必死に考えていた覚えがある。

 

ネット界隈なので、この人が本当に新任なのかはさておき、教員の業界で新任の先生に何を望んでいるのかなというのを少し考えてみた。

 

教員の仕事の優先順位

小学校教員の担任の仕事は、簡単に分けると3種類になる。

①学級 ②学年 ③学校の仕事の3種類である。

 

学級の仕事は、要は担任業。

普段の授業だったり、生活指導だったり、学級を運営するためにする仕事。

よく教員の仕事でイメージされるのも学級の仕事

 

学年の仕事は、自分の学年全体に関わる業務。

校外学習や行事の計画、学年便りの発行、会計業務とか、児童への指導というより事務的な業務が多い。

 

学校の仕事は、学校全体に関連する業務。これも、そのまんまだよ。

運動会とか行事の委員長とか、通知表の様式や時間割の調整とか、避難訓練の計画とか、どちらかと言えば直接児童に関わらない仕事が多い

 

じゃあ、この3種類の中で、学校において最も重要な業務は何か。

これの答えは学級の仕事だろう。

直接、児童に関わるので教員として疎かにしてはいけないところ。

 

じゃあ、この3種類の中で、最も優先度が高い業務は何か。

これの答えは学校の仕事

このあたりが教員以外の人や新任と、経験を積んだ教員の意識の違いがあるかもしれない。

 

学校の中で最も優先されるべき仕事は、学校の仕事

初任者の頃に先輩から言われたのが、「仕事は学校→学年→学級でやるべき。だってこれをやらないと学校が回らないから全体に迷惑がかかる。」ということ。

初任の時もこの話は納得したし、今でもそれは意識して仕事をしている。

 

評価観の違い

 

吉野は先輩から教えてもらったが、この仕事順は指導されなくてもぼんやりと分かってくる。

なので教員の中で業務的な評価ポイントは、学校の仕事を上手くしているかどうかになってくる。

 

逆に学級の仕事の優先順位はそんなに高くないため、荒れたクラスを立て直しているとか研究員とかで研究授業をたくさんやっているとか無い限り、そこまで評価は高くならない

担任同士で経営の仕方や実践について褒めたりしたりはするけどね。

 

この評価の仕方が、保護者や教員以外の人との評価観が少し違ってくるように思える。

特に保護者にとっては学級の仕事が一番だからね。当たり前だけど。

 

もっと言えば、吉野くらいの中堅どころになると、学級を通常に運営するのはごく普通のことであり、全く評価されることではなくなる。そりゃ、そうか。

 

「そんな評価のされ方は間違っている」「担任なんだから学級の仕事が最も評価されるべきだろう」という批判はよくあるが、現実的にはこうなんだよね。

 

例えば吉野は前任校では情報関係に強いからよく質問されたし、研究授業も結構やるし、行事の委員長もやった。

なので周りからの評価はそこそこ高かったけど、学級経営は上手くなかった

学級が崩れるほどでないなら、学年や学校の仕事をしている人は評価が落ち着くものだ。

  

がんばれ、新任

新任の先生もこの評価順で仕事を頑張る必要があるかと言うと、新任は全く異なる

学校が新任に求めることは、とにかく学級の仕事を完遂すること。それ以上は求めていない。

 

教員は専門業であり、いわゆるプロフェッショナルの仕事だ。免許も必要だしね。

新任であってもプロである。学級を通常通り回すことは当然業務として求められる

よく言われるのが「子供の前に立てば、新任であろうがベテランであろうが『先生』であり、そこに差は無い」というフレーズ。

 

しかし現実的に学級を普通に運営するのは死ぬほど大変である。

いつも思うんだけど、研修0で実地に放り出すってブラックそのものだよね。

因みに教育実習の経験は、現場の3日間で獲得できるレベルのことしかやれない

そもそも一番大切な学級の開き方とかやらないし。

 

そのため新任に求めることはただ一つ。1年間とにかく学級運営をやりきる

 

教員だけに限らないと思うが、新任の1年間はめちゃくちゃ長く感じる。

ゴールド・エクスペリエンス・レクイエム喰らってるんじゃないかってくらい長い

 

そして1年間やり切ると「よく潰れなかったね!」なんて褒められることも。

この業界は、それくらい割とよく人が潰れる

新任は潰れず、1年間やり切れば万事OKである。

 

評価観のギャップ

こうなると新任の先生が噛みつかれる理由がだんだんと分かってくる。

  • 教員が主に評価するのは、学年や学校など全体に関わる仕事。学級の仕事はあまり評価されない。
  • 新任が頑張るのは学級の仕事

 

新任が頑張るのは基本的に学級の仕事。なので必然的に学級に関するアピールや発信が多くなる。

しかし新任が学級の仕事についてアピールしているのを見ると、評価に値しない仕事を、すげーアピールしてイキがっている視野の狭い若者にしか見えない。

そのため「現実見ろよ」「仕事はそればかりじゃない」という指摘が来る。

 

逆に、経験がある先生が同じ発言をした場合は、「この人は優先順位とか全部踏まえた上で、こういう発言なんだな」と勝手に理解してもらえるのでヨイショが入る。

 

若者はイキろう

若者が「視野が狭い」「仕事を分かっていない」と言われるのは、どこの業界でも同じだろう。

学校も同じであるが、詳しく見るとこの業界的には評価観の違いから上記の発言につながっていく。

 

とはいえ、イキった発言をするのは若者の特権だ

経験を重ねれば、嫌でも分かるものがあるし現実と合わせなくちゃいけない部分も出てくる。

これもどの業界でも一緒だね。

 

それに死ぬほど学級のことを考えらえるのは若いうちしかない

吉野くらいになってしまうと学級のことは考えるが、学年や学校のことを考えて行動しないといけない。

そうなると学級に手が回らないことも往々にしてある。

 

仕事順を教えてくれた先輩も

「委員長とかになるとそっちの仕事が多すぎて、学級に手が回らなくなることがあるんだよね。それって本末転倒でおかしいとは思っているんだけど。」

とも話していた。

吉野もどこかおかしいとは思いつつ、現実と折り合いをつけながらやっていた。

 

ただ新任のうちは学級を頑張って運営することが、最終的に学校のためになるから、やっぱり学級経営を熱心にやって、イキると良い

まぁ、それも3年目までだけどね。

【さる先生】「所見ヤッホイ指数」をもう少し厳密に出してみる【エクセル】

「所見ヤッホイ指数」って何?という方は、下の書籍をご覧になると良いと思います。

さる先生の「全部やろうはバカやろう」

さる先生の「全部やろうはバカやろう」

  • 作者:坂本 良晶
  • 発売日: 2019/03/06
  • メディア: 単行本
 

書籍の方は良い意味での力の入れ方や抜き方が書いてあったり、今まで教員が意識していていなかった生産性の上げ方が紹介されたりしているので、年齢に関わらず読むと良いと思います。

 

所見ヤッホイ指数とは

概要だけ説明しておくと、「所見ヤッホイ指数」とは所見がどれくらい進んでいるかをパーセンテージで表してくれる指数である。

詳しい話は書籍を読みましょう。

 

さる先生(@saruesteacher)のnoteでも公開されているので、欲しい方はそちらからダウンロードすると良いかもしれません。

noteはこちら。

note.com

 

これだけ宣伝しているのに、私はこの本を先輩から借りて少し読んだだけなので持っていません。

さる先生、一冊くらい進呈してもらえませんか(強欲)

 

所見ヤッホイ指数の課題点

所見ヤッホイ指数の基本的な考え方は「ヤッホイ指数が100%になったら所見が完成する」のだが、これは厳密には正しくない。

 

ヤッホイ指数は所見の合計文字数を基準に算出される。

極端な話をすると、ゴールラインが6000文字(200文字×30人)だとすると、1人1000文字書くと6人書いた時点で100%になる。残り24人は0文字。無念。

 

当然ここまで極端ではないが、子供によって所見の文字数に多少の差が出ることは大いにある。

しかも所見の標準文字数を意識していると、やや多めに書きがちになる。

そのため個人的には、30人学級だと28人くらい書いた時点で100%いくんじゃねという感覚がある。

 

そのため、今回のミッションは学級全員が標準文字数を超えた時点で100%になる厳密な所見ヤッホイ指数を組み立てていく

 

Let's ヤッホイ

これだけ前置きしているが、実はこの取り組み、以前に既に成功している

こちらを見てもらえれば、ちらっと書いてあるのが分かるだろう。

tohruyoshino.hatenablog.com

 

しかし前回は所見ヤッホイ指数に力点を置いていなかったので、ヤッホイ指数用の列を用意したりと割とテキトーに作った。

今回は列を減らしたりと、見た目をもう少しスマートに作っていきたい。

 

そのため基本形はさる先生が公開している、このシートの見た目のまま関数をいじっていく。

f:id:tohruyoshino:20200430101940p:plain

 

前提として、さる先生のシートには目安文字数と書いてあるが、今回はこれを最低文字数として扱う。この数字を全員が超えないと100%にならないようにする。

 

ヤッホイ指数自体は以下の数式で成り立っている。

指数 = 総文字数 ÷ 目安文字数 ÷ 児童数

 

もうちょい分かりやすくするとこうなる。

指数 = 総文字数 ÷ ( 目安文字数 × 児童数 )

 

総文字数(所見の合計文字数)が、ゴール(目安文字数 × 児童数)に対してどれくらいかなという式になっている。

なので今回の課題は総文字数が所見の単純な合計数であることにある。

つまり目安が60文字なら60文字以上はカウントしないでほしいという設定を加えればいい。

 

まとめてみると以下の条件設定になる。

  • 目安の文字以上なら、目安の文字を足して
  • 目安の文字より少ないなら、表示された文字数足して

 

目安の文字以上の時

今回の場合は「60文字以上の時は、60文字で計算して」という関数になる。

色々と考えたけど、もう60文字超えた人数を数えて60かけるのが速くない?

 

まず60文字を超えた人数を調べる。

=COUNTIF(D2:D5,">=60")

 

これに60をかける

=COUNTIF(D2:D5,">=60")*60

 

ただし目安の文字数が変わるかもしれないので、60の部分を目安文字数から引用する。

条件部分の書き方に少し注意する。

 

出来上がったのがこちら。

=COUNTIF(D2:D5,">="&E4)*E4

 

目安の文字より少ない時

こっちは単純にできる。

「60より少ない文字数を足して」という

=SUMIF(D2:D5,"<60")

 

先程と同様、60を目安文字数から引用する。これで完成。

=SUMIF(D2:D5,"<"&E4)

 

まとめるとこんな感じ。

  • 目安の文字以上 =COUNTIF(D2:D5,">="&E4)*E4
  • 目安より少ない =SUMIF(D2:D5,"<"&E4)

 

両方を合わせて以下の式にする。

=SUMIF(D2:D5,"<"&E4) + COUNTIF(D2:D5,">="&E4)*E4

 

やったー。完成!

 

完成品

出来上がりがこちら。

f:id:tohruyoshino:20200430112045j:plain


今回の場合、アンパンマンが51文字なので60文字以上にしないと100%にならない。

児童数とかも自動で出るようにすればいいんじゃねとか思ったけど、不登校対応とかもあるからやめた。

 

今回は見やすさ重視で絶対参照をしなかったけど、実際に運用するときは絶対参照をしないと面倒くさい。

でもこのセルでしか関数を組まないから良いか?

 

振り返り

もっとガチャガチャと関数を入れないといけないかなと思ったけど、一か所だけでいけた。

よく考えれば問題は総文字数の部分だけだからね。

その分、想像していたよりスマートにできた。

 

今回はこの形で作ったけど、「60以上なら60を、60より小さいならその数を足して」という命令は一つの関数でいける気がする

60以上の時もSUMIF関数で表現できるかと思ったが、上手くいかないので今回のCOUNTIF関数の方法をとった。

さらにスマートな形は無いのかな?

 

今回は目安文字数と言いつつ、最低文字数設定になっているけど、これは仕方がない。

目安ってとても曖昧な表現だからね。もしコンピュータに落とし込む時は、前後10%までとか厳密にとらないといけない。

 

とりあえず厳密な所見ヤッホイ指数は完成したので、活用したい方はどうぞ。

 

最後に一応、宣伝しておこう。

【教育】忘れ物指導について思うところをまとめてみた【忘れ物】

 

話題の始まりはここから。

「忘れ物の指導をしない」ことに対して、多くの教員が「いい考えだね」とか「それはどうなの」という意見を色々と言っている。

忘れ物指導に関しては教員の悩みのタネの一つでもあるから、様々な意見があるのだと思う。

 

厳しく指導してみる?

忘れ物をした児童に対して、厳しく指導する場合も往々にして見られる。

かく言う私も若手の頃はそのような指導をした覚えがあり、恥ずかしい限りである。

 

厳しく指導をしてもあまり意味は無い。経験的に忘れてしまう子はいくら言っても忘れる。

上のツイートでもある通り、逆に「今日は忘れ物していないかな?」と強迫観念に駆られてしまったり、「忘れても怖いから言い出せない。」という事態に陥るケースが容易に想像できる。

 

第一、指導しているこっちもイライラしてしまう

「これだけ言っているのに、なぜ忘れるんだ!」という思考になる。

因みに「これだけ言っても」と書いているが、概ねこのような場合に多いのが「忘れたこと自体」を叱って、「次は忘れるなよ」で終わるケースだ。

これは次に忘れない手立てが話されておらず生産性が無いので、残念ながら指導とは言えない。

 

厳しく指導することは「忘れ物指導あるある」だが、児童・教師共にメリットが少なく効果も薄いだろう。双方可哀そうだ。

 

厳しくならなくてはいけない時

ただし個人的に忘れ物指導の中で厳しく叱る場面もある。

それはこちらが十分に指導した後に、なおかつ改善が見られない場合である。

つまり何回か「こうしたらいいんじゃない?」など児童と合意を得ているにも関わず、全く直す気配が見られない時である。

 

これは忘れ物の問題ではなく、信頼関係の問題である。

そのため児童にも「これ以上忘れ物を続けるのであれば、それは信頼関係の裏切りである」という旨を伝える。

 

これは忘れ物に限らず行う指導であるが、基本的に児童が「やります。できます。」と言ったら教師は(表面上は)無償の信頼を寄せる。

しかしそれが実行されないのであれば、当然信頼は落ちていく。

 

信頼はするが、信頼を失う実感もさせなければ、「やります」とその場しのぎに言う人になってしまう。それは教育上良くない。

「やります」詐欺になっている児童には、「あなたが言うことは毎回守られないので、全く信用していないが、どうする?」という旨をハッキリ告げている。

 

よっぽどのことが無ければ、この指導のどこかの流れで持ってくるので、「持ってこられて良かったね。先生も嬉しいよ」という感じのアイメッセージを伝えるようにする。

 

忘れないのは無理

「忘れる」という行為は生きていく上で大切なことだ。

全て覚えていたら、頭がパンクしてしまう。そもそも大人だって忘れるじゃないか

 

なので、忘れ物に対する吉野の基本的なスタンスはこれだ。

 

これは何かのマネジメントの本で見た内容を忘れ物に応用した話だ。

部下の失敗を上司はどう評価すべきという話だった気がする。

 

まず1度目の失敗(忘れ物)は事故だ。

これは防ぎようが無い。誰にでもうっかりがある。

本当に大切なものは細心の注意を払うだろうが、それでも忘れる時は忘れる

 

なので1度目の忘れ物は何も言わない。

特に普段忘れ物をしない子だと、それだけでショックを受けている可能性があるので、「残念だったねー。仕方ないねー。」など共感して、代替手段を相談する。

 

ただ事故であっても、なぜ事故が起きたか(忘れたか)はヒアリングする

本人がその原因を自覚していないと、再度同じ事故が起きるからだ。

1度目はそれで終わり。

 

しかし2度目は本人の不注意である。

この場合の2度目は期間や種類共に近い場合に限る。

 

1学期に1回、2学期に1回などであったら、どちらも1度目カウントになる。

逆に期間が空いても、「それ、前も同じ忘れ方しなかった?」と言われるケースは2回目になる。

 

前回、同じ失敗をし、忘れた原因のヒアリングも行っているので、その状況下で忘れることは本人の改善の意識が低い可能性が高い

 

厳しくは言わないが、前回の失敗がなぜ生かされなかったか関してはある程度追及する。

「忘れてしまうのは仕方無いにしろ、それは前回の失敗を学んでいないんじゃない?」という反省を促す

後は代替手段を相談して終わり。

 

3回以上は何らかのシステムに欠陥がある

私が読んだ元の記事には、「3回目は上司のマネジメントの失敗だぜ」と書かれていた。

学校の場合は対象が子供なのですぐに教員のせいではないと思うが、いずれにしろ同じ失敗を繰り返す、何らかの要因が隠れているのは間違いない

 

忘れ物をするにも家庭環境などの外的な要因本人の特性などの内的な要因それらが組み合わさった複合要因などがある。

 

一番よくあるのが、翌日の準備が習慣化されていない場合だ。

特に低学年の場合は90%くらいこれが該当する。

 

例えば低学年の場合、明日の準備までの流れには

  1. 連絡帳を書く
  2. 先生が連絡帳を確認する
  3. (帰宅する)
  4. 連絡帳を開いて確認する
  5. 明日の準備をする
  6. おうちの人が確認する
  7. (翌朝)
  8. 忘れずに持ってくる

という大まかなステップがある。

忘れ物が発生するのは4、5、6のどこかのステップが機能していない。

 

よく忘れ物をする子にヒアリングすると、いつ準備をしたか考えだすケースがある。

これは先ほどの4、5のステップが機能していないケースだ。

逆にあまり忘れ物をしない子は、「寝る前」とか「家に帰ったら」とか、どこかしら決まった時間をすぐに答えることが多い。

 

そのため忘れ物が多い指導には、これらが習慣的に機能しているか確認する必要がある。

家庭の中の話なので、もちろん保護者にも協力を仰ぐ。

 

www.kyosai-school.com

調べたら教員採用試験の場面指導対策が出てきた。

細かい点は他にもあるけど、チェックする点はこれを参考にすると良いかもしれない。

 

内的要因と対処法

外的要因の場合は、親の協力を得たり本人の意識を変えたりすることで少しずつ良くなる。

ただ内的要因の場合は少し大変。しかも頻繁に忘れる子はこっちが原因の方が多い。

 

顕著な例にだと、ADHDが一番分かりやすい。特性上、漏れや抜けが多くなってしまう。

合理的配慮の点からも、特性上忘れてしまう場合は本人を叱っても仕方がない

ADHDの子に「忘れ物をしないように気を付けろ」と言うのは、背が低い子に「もっと高くなれよ」というくらい、暴力的な言葉になっていまう。

 

kyoiku.sho.jp

この記事にも少し書いてあるが、特に小さい子供の場合は認知特性の問題が大きく関わってくる。

単純に物の量に対して、管理能力が追い付かないというケースも多い。

 

認知が大きな要因で忘れ物していると思われる場合は、本人の頑張りではどうにもならないので、早々に仕組み化などの対処方法の指導に移る

ここでやたらと本人の意識改革をさせようとすると、「私はいくら言われても忘れ物してしまうダメな奴だ」という2次障害になりかねない。

 

 

忘れ物をしないために意識改革はしてもらう。

しかしそれは本人の努力してもらうということでなく、自分の特性と現状を理解してもらうということだ。

 

特性上、自分は忘れ物をしやすいらしい。これは仕方ないし、別に悪くない

しかし忘れ物をすると困るなぁ。どうしよう。

 

このような内容を児童が抱き始めるので、忘れない仕組みを作るのと忘れた時にどうするか対処法を指導して学んでもらう。

 

「先生、忘れました」

 

先々を考えると、大人になっても忘れることはあるのだから、その対処法を学んでもらわないと困る。 

そのため常々言っているのが、「忘れるのは仕方ないから、忘れたら報告して」ということ。

 

子供には最初から「忘れ物をするな」ではなく、「忘れ物したら早くに正直に言いに来なさい。怒らないから」と伝えている。

児童は忘れ物を失敗だと捉えるので、まぁ失敗なんだけど、基本的に報告してもらうために「怒らない」ことは強調しておく。むしろ忘れ物を報告しなかった場合に、「報告しようね」と指導する。

 

先程までの流れを読んでもらうと分かる通り、怒るポイントって無いんだよね。

吉野としては、忘れ物に対して何らかの対処法を身に着けてもらうのがゴールだと思っているので、忘れ物指導はその点に注力する。

 

そうすると子供は割と素直なので、「先生、○○を忘れてしまいました。」と報告に来る。

この時は「ちゃんと報告に来たなー。いいぞー」とか言ってから、「残念だったね」など言って会話を終わらせる

高学年くらいで察しの良い子は、「△△していいですか。」と対処法を話してくる。

 

小さい子などには「で、どうする?」と聞いて、対処法を促す。

その場で対処法が出れば良し、出なければ「▢▢な方法があるから、今日はそうしよう。次回はちゃんとどうするかも考えてごらん」と指導する。

 

時折、「どうしたらいいですか?」と聞いてくる子もいるが、それでも構わない。

社会に出たら上長の指示を仰ぐのは基本だしね。

後は前述の回数に応じた忘れ物指導しておしまい。

 

こうやっていると、2学期くらいには「先生、○○を忘れてしまいました。すいません。△△していですか(or△△します)」といった感じで報告ができるようになる。

ここまで行くと、全体的な忘れ物指導は必要が無くなってくる。

 

一応、クラスには筆箱とかノート代わりのプリントとかを用意している。

 

指導のまとめ

忘れ物指導はついつい怒りがちになるが、あんまりメリットは無い。

大切なのは忘れ物指導のゴールがどこかちゃんと考えておくこと。

 

ただ細かい部分では家庭との連携が必要になるので、特に低学年では保護者にもスタンスを話して協力を求めていく。

そういう時に保護者がしっかりしていないと、大体改善されないんだけど、まぁそれは家庭の問題なので仕方ないね。

 

oyaryoku.blog.jp

ここにも書いてあるんだけど、罰則をつけてもまるで意味が無い。

なんなら、いじめDVDとかには忘れ物が多い子がいじめられる事例とかあるくらいだから、餌を与えているようなもの。

忘れ物は個人(と家庭)の問題。

 

今日はこれくらいで。