音読の宿題は嫌い

保護者会のこと

先日、保護者会があった。

冬休みに向けた、ちょっとした保護者会だ。なんのためにあるかも分からない。保護者の方もまぁ忙しいので、そんなに集まりも良くない。それでもクラスの半数程度は来ていたの良い出席率だなと思っていた。

 

とりあえず最近のクラスの様子と今後の予定等についての連絡を行う。勤務校では3学期からランチョンマットを敷くことになったので、その話題を多めに話す。保護者からも大きさ等についてはちょこちょこと質問が出た。

 

ひとまず予想通りに進んでいる中で他に質問が無いか尋ねたところ、ある保護者の手が挙がった。

「うちの子が音読の宿題をやらない時があるのだが、宿題は毎日出されているのだろうか?」とのことであった。

 

音読の宿題とは

吉野の学級では、概ね3つの宿題が出ている。

 

1つ目は漢字だ。毎週水曜日くらいにテストを行うので、そこに向けて各自、練習をするようにしている。範囲は提示するが何を出すかは曖昧にしているので、子どもたちは自分たちで何となく計画を立てて練習している。テストの点数で確認すると、意外に定着率が良いので驚いている。

 

2つ目が計算ドリルだ。教科書に準拠した計算ドリルを購入しているので、復習のため宿題を出している。学習進度と微妙にずれることが多く、正直使いにくくなってきているのが現状だ。

 

そして3つ目が音読である。現在、国語などで学習している物語の単元を音読してくる宿題である。その他にも音読用のスキルなどを使い、色々な題材を読むようにしている。

件の音読の宿題とはこれのことである。

 

音読の宿題は嫌い

吉野は音読の宿題が嫌いだ。

理由はシンプルで、面倒くさいからだ。

 

正直、自分が小学生のときにも真っ先にサボった宿題が音読であった。やる条件がとにかく面倒くさい。

だらだらと音読すること自体も面倒で嫌いであったが、一番は「誰かに聞いてもらう」ということである。親を捕まえて、音読をしなくてはいけないのは非常に面倒くさい。ましてや今時の保護者であれば、遅くに帰ってくることも多く、それまで宿題がお預けという状況も非常に受け入れがたい。

 

しかもやっても達成感が少ないのだ。別に音読自体は本人としてはすらすらできるのだから、毎日宿題に出されても一定レベル以上には上達しない。もちろんちゃんと取り組めば、自分の不出来が見えるのだろうが、音読にそこまでの向上心は無い。毎日、作業ゲーになるなら、やらなくていいやと思うのは人の性だろう。

 

また教員になってからよく分かったが、音読の宿題はやっているかが分からない。漢字や計算は成果物が提出されるので、やってあるかどうかの確認ができるし、子供の習熟度や家庭での支援の様子も分かる。

しかし音読は情報が少なすぎる。音読カードなどを用いて、読んだらチェックする形式であると、読んだかどうかは全くわからない。保護者にサインをもらったりもするが、当然チェックしない保護者もいるので、やっているのかどうかの確認ができないのだ。

 

そもそも吉野は宿題の提出管理が非常に嫌いだ。半ば作業ゲーになるような宿題をやることに、何の意味があるのだろうか。そのため宿題をやってくる子を誉めはするが、未提出でも厳しい指導はしない。

 

子供は宿題をやってもやらなくてもバレない、担任もそれをうるさく言わない。

そんな状況なので、吉野の学級では音読の宿題はアンタッチャブルな領域になっているのだ。 

 

音声を録音すればよいのでは

前々からこの状況は分かっていたので、なんとかしたいなーとは思っていたが、優先度が低い事項だったので放置していた。

しかし今回の保護者会の件もあるので、少しテコ入れしてみようと思ったのだ。

 

音読の難点が物が残らない点である。確認や提出の観点もそうだが、子供にとってやった成果が残らないのが問題である。

じゃあ物が残れば解決するわけで、録音すればよいのでは?

 

勤務校ではGIGAスクールの関係で、一人一台タブレットが配付された。吉野の学級でも日々使っており、だんだん学習用具としての認識が高まってきたところだ。

このタブレットを持って帰って、録音すれば万事解決である。さっそく主任に相談してみた。

 

「ガンガン行こうぜ」

吉野と組んでいる学年主任はベテランの女性だ。ベテラン女性というと、なぜかICT音痴のレッテルをはられがちだが、主任はむしろ推進派である。研究主任というのも大きいだろうが、とにかく一緒に組んでいる主任が推進派だと非常にありがたい。

 

勤務校全体でもそうなのだが、主任はICTに強いわけではないが、「とにかくやってみる」という精神がすごい。吉野がスマートにICTの使おうと無駄に考えている中で、ガシガシ色々と使っていく。わざわざタブレットを使う必要があるかと言われる活動でも、とりあえず使ってみたりしている。この姿勢は、吉野は「泥臭く使う」と表現しているが、非常に学ぶべきことが多い。

 

そんな主任に音読の件を相談したところ、快諾が得られた。何なら「良いね!うちもしよう!」と言って、相談した次の日にはタブレットを持ち帰らせ、宿題をさせていた。決断力が凄まじい。

因みに吉野といえば、音読ファイルの提出先をどうするか悩んで、一歩遅れて宿題を出していた。iPadなので、Airdrop提出かなー。でも提出ファイルがすごーく多くなるのがやだなーとか、チームスで管理したいなーとか考えていた。まぁ、理想的な環境を考えて整えるのが、情報担当である吉野の使命なので(言い訳)

 

音読を「提出する」魔の時代

こうして吉野の学年では音読を「提出する」という、魔の時代が訪れた。提案しておいてなんだが、げに恐ろしい事態である。

ところで音読の提出だが、主任と吉野では実は少し違う意図をもっている。

 

主任は提出することで、子供の音読の様子を把握したり、宿題提出のチェックなどを目的としているようだ。要は今まで無形だったものが有形になるので、ちゃんと管理できるようになると考えている。

最初の保護者の話からも、この考えはある程度賛同できる。結局、保護者も我が子がちゃんと宿題をやっていて、それを先生が把握しているか(指導してくれるか)という点が気になっているからだ。

 

ただし吉野としては、録音の最大の目的は自分の音読の分析と考えている。今までは読むことに注力していたので、自分の音読の出来というのを子供が客観的に振り返ることが難しかった。それが録音された自分の音読を聞くことで、自分がどの程度スムーズに読めているか客観的に捉えることができる。

分析をすれば当然、出来不出来が分かるので音読に対する姿勢が自ずと変わってくる。何なら今後は他者の音読を聞くことさえできる。改めて考えても、学習の質が違うなぁ。

 

始めたばかりなので、録音の提出がどうなるかは分からないが、宿題の一つをとっても一人一台ってすげーパワーがあるなと感じるばかりである。

以上。

若手との違いを感じて初めて自分が中堅になったことを自覚する

運動会のメイン指導者は?

うちの学校では、今年ミニ運動会を行うことになった。

運動会といえば普段は全校で行うが、縮小したので今年は学年ごとに発表をする。

各学年1時間の持ち時間の中で表現(ダンス)と徒競走をする。

 

ミニ運動会は11月に行われる。

本当の運動会であったら、10月の半ばくらいに実施されるのだが、

各学年1時間使ってしまうと、午前中にすべての学年が終えることができない。

土曜授業の時間割だと間に合わないからね。

そのため4・5・6年と1・2・3年に分けて、2回の開催となった。

そんなわけで3年生はぼちぼち練習をしている時期なのだ。

 

うちの学年は、主任と私と後輩の3クラス編成になっている。

今回の運動会の計画と指導は、基本的に後輩が行うことになった。

先週くらいから練習が始まったが、指導の様子を見ていると、なかなか上手く行っているとは言い難い。

もちろんある程度ちゃんとできているのだが、時間に対して練習の効率が良くない。

そしてなぜか私にマイクが回されることが多い。

 

後輩が困ったりしたタイミングで、こちらがマイクをとり、子供へ指示を出す。

後輩の指示と一貫性をもたせつつ、話をするので内心ではもどかしさがある。

そんなもどかしさを抱えながら過ごしていたが、先日の練習ではいよいよ殆どの時間、私がマイクを持つことになった。

 

なぜこのような事態になっているのか。理由は明確だ。

指導の想定が杜撰なのだ。

ダンスの動きの細部や隊形移動の時の動線など、細かい部分の計画を練られていない。

大枠の相談は学年で行ったが、そこから先の指導が想定されていない。

だから指導がぼんやりとして、効率が悪い。

どうも後輩にとって、大枠で決めた以上の想定はしない(できない)ようだ。

 

私の「後輩」のイメージ

この想定の甘さというのは、私の中で意外であった。

なぜできないのかが疑問でもあった。

結論から言えば、後輩の経験が少ないからということになる。若さ故の未熟さである。

 

しかし私の中で未熟というのは、1、2年目程度の人のことで、今の後輩くらいの年数であれば、もう少しできるだろうと思い込んでいた。

 

というのも前任校での後輩たちが非常に優秀な人物だったからだ。

3年目の頃には自分と並ぶくらいに指導力があった。

だから私の中での後輩のイメージは「3年目くらいになると、こちらも概ね満足できる程度の指導力がつき、なんなら自分より優れた点が多分にある存在」になっていた。

 

でも若い人はやはり若いものだ

既にお分かりの通り、私の後輩に対するイメージは世間一般より遥かに優秀なイメージである。

当時の私の観測範囲内にそのような後輩ばかりであったのが、嬉しい問題であったわけだ。

 

現任校になり後輩たちを見ていると、そのイメージとは少し違っている。

指導の様子を見ていると甘さが目立つ面がある。先の運動会指導もその一つだ。

 

その話を同期にしてみたところ、「若い人だとそんなもんじゃない?」とのことであった。

同期の前の学校には、今の学校のように若い人が多かったらしい。

その経験から言うと、今の状態はそんなに不思議ではないようだ。

やはり私の認識のほうが誤っているのだろう。

 

私はどうやって成長したか

後輩の話をしてきたが、省みると自分がどうだったのであろう。

私が3年目の頃は、今の後輩と同じような感じであっただろうか。

おそらく半分は正解で、半分は不正解だ。

 

例えば運動会の指導に関して、指導の未熟さはあっただろう。

しかし現状と同じような問題は抱えていなかった。

なぜなら私は自分の未熟さを、膨大な時間をかけることでカバーしていたからだ。

 

私の3、4年目の頃というのは、最も退勤時間の遅かった時期だ。

自分がやりたいことがたくさんあり、それを実現するために湯水のように時間を使った。

褒められた方法では無い。ただ当時の実践を今また磨き上げて再現しているので、自分の財産にはなっている。

 

今の後輩の様子を見ていると、あまり時間をかけているところは見られない。

みんな、わりとスマートに仕事をこなしている感じがする。

 

時間と密度と意識の高さ

時間が長ければ成長できるかといえば、そんなことない。

ツイッターなどで、そんなことを言えば大いに叩かれるだろう。むしろ試したいくらいだ。

 

成長には経験値が必要だ。

経験値の簡単な算出方法はこんな感じだろう

経験値 = 学習密度 ✕ 時間

 

私は自分が成長するために膨大な時間をかけることで経験値を得ていた。それが長時間労働につながっていたわけで、昨今の情勢から言えば、学習密度を上げるべきなのだろう。

 

では学習密度を上げるにはどうしたら良いだろうか。

様々な方法があるが、一つだけ共通しているのは、自分の学習への感度を上げる必要があるということだ。

つまり自分が学びへの意識を高くもたなくてはいけない。

 

これもやはりネット界隈にいる人には至上の命題のようで、非常に学習への意識が高い人が多い。

しかし万人にそれを求めるのはどうだろうか。

 

日々、それだけの感度を保つことができるだろうか。

私に関してはNoだ。そんな状態では疲れてしまう。

だからこそ私は安易な時間をかける方法を選んだのだろう。

 

時間と成長線

経験値は学習密度と時間の乗算で出せるだろうと言ったが、私は学習密度は定数に近い変数ではないかと思っている。

もちろん学ぶ意識を高くもてば、ぐぐっと上がる変数ではあるが、平常時では定数的であるように思う。

 

となれば、やはり成長するにはある程度の時間が必要になるだろう。

時間をかければある程度の成長はできる。

 

成長するためには、時間をかければ良いわけではないが、時間をかけなければいけないところもあるだろう。

そして後輩たちは、それだけの時間をかけているだろうか。私には疑問に思える。

 

指導案を作る

先日、管理職の授業観察があったので、指導案を作った。

授業観察の時にはいつも指導案を作っている。

今回は異動初の観察だったので多少緊張していたこともあり、少し細かく作った。

 

指導案とは言ったが、正確には略案である。

めあてと本時の流れだけが書いてある、ごくごく簡単なものだ。

 

授業観察や公開の時には、この略案をよく作る。普段の授業でも時折作ることがある。

自分の感覚としては、とても力を入れるほどではないが、いつもよりしっかりやりたい授業の時や少し緊張する授業の時に作成をしている。

つまり「あまり外したくない授業」の時だ。

 

とはいえ、最近はこの略案もあまり作っていない。

一番多く作っていたのは、2,3年前の頃だ。あの頃は熱心に色々な授業を試していた。

教材開発のための実践もたくさんやっていた頃なので、自然と増えていった。

 

略案を作っておくと便利なことがある。

前述の通り、この略案を作る時は自分の中で「外したくない授業」の時なので、逆を言えば何か特別なことをしている時に作っていることが多い。

そのため自分の珍妙な実践の宝庫になっているのだ。

 

少し紹介してみよう。

光村の国語の教科書には季節の教材がある。「春の言葉」とかそんな感じの単元だ。

 

私はこの教材をどう扱ったらよいか、いつも悩んでいた。

指導書に授業の流れが書いてあるものの、その通りに行っても上手くいく気がしない。

今の自分ならば、指導書の流れ通りでもある程度はできるだろう。しかし多分ある程度だ。

 

悩んだ私が出した結論は、この単元では俳句を作ることにした。

季節の言葉を使って、なおかつ言語活動ができるものといったら俳句だ。以来、私はこの教材では俳句を作っている。

 

そして季節教材ということは、4回は似たような授業ができる。

そこでこの教材群を帯単元として設定することにした。

年間で4回も俳句を作ると年度末にはそれなりの作品になるから面白い。

 

こういった記録が略案として残っているのだ。

たまに見返すと自分でも忘れていた面白い実践もしている。

あと同僚に資料としてすぐに実践内容を紹介できるから便利でもある。

 

略案はほどほど作るが、しっかりした指導案を作ったのは昨年の研究授業が最後だ。

校内研究なので学年で作成した。自分だけでしっかりとして指導案を作ったのは、もう記憶にも残っていない。

 

Twitterを覗いていると指導案の話はたまに出てくる。

時間ばかりがかかって無駄だという話題が多い。

その分の時間を、内容を充実させることに使うべきという意見もある。

 

確かに指導案の作成にはある程度時間がかかる。

作成の最中に様々な手が入り、内容が変わる時もしばしばある。

しかし私はそれが無駄だと思わない。

 

指導案には書く内容に無駄は無い。

指導上、必要なこと以外は書かないからだ。

指導案の作成だけで考えるなら、確かに時間がかかり、無駄に思える。

しかし指導案を作成している時というのは、授業を練り上げている時間でもある。

むしろ授業を練り上げている時間があるのに、それが指導案に反映されない方がおかしいのだ。

 

指導案を作るには、授業を練り上げる。

授業を練り上げたなら、指導案が修正される。

指導案作りとはそういう物ではないか。

ずるくなった私

ずるくなった気がする。

それが年齢のせいなのか。経験のせいなのか。

どちらかは分からないが、とにかくずるくなった気がする。

 

或いは自分のしたことがずるいと言われるものなのかすら定かではない。

もしかしたら適切なのかもしれない。

しかし自分の中で、その自分の行動を形容するならばまっさきに「ずるい」という言葉が浮かんだ。

だからやっぱり自分はずるくなったのだと思う。

 

先日、ある子が私のところに話にきた。

聞いてみると、同じクラスのAさんが音楽の時間に真面目に授業を受けていなかったとのことであった。

 

Aさんといえばうちのクラスでは、なかなかパンチが効いた子である。

周りから少し外れた行動をすることもある。

音楽の時間の話を聞いても、正直私には「あぁ、そういう行動をとるのはあり得るだろうな」くらいにしか思わなかった。

 

翻って、報告に来た子はとても真面目な性格の子である。

Aさんの行動を見て、これはよろしくないと思い、私のところに来たのであろう。

 

さてどうしたものか。迷うところである。

 

Aさんの行動を見れば、周囲から完全に外れている。

これを叱りつけるのはごく簡単だ。Aさんを呼んできて、今後そのような行動をとらないことと話をすればよい。

報告に来た子はおそらく納得するだろう。しかし、Aさんの行動が今後変容するかといえば、可能性は低い。

つまり言ったところで徒労になるのが、目に見えている。

むしろ私とAさんの距離がやや遠くなる分、損のほうが大きい。

 

かといって、「彼は特別だからいい」ということも言えない。

教師は子供の前で不公平であってはいけない。

個に応じた対応はする。しかし不公平感があってはいけない。

不公平に対応するということは、教師の信頼を落とす行為だ。

 

普通の基準に照らせば、Aさんは叱られて然るべきである。

ただそれはAさんには意味がない。

Aさんに応じた叱り方をしなくてはならず、しかしそれでは報告に来た子が納得しないかもしれない。

 

さて、どうしてものか。

 

昔はこのジレンマにしばしば悩まされた。

いや、悩まされているという意味では今も同じだ。

結局、どちらも消化不良となるような中途半端な指導をしていた気がする。

 

結局、考えた末に私が出した結論はこうだ。

「あなたは、Aさんにどうしてほしいの?」

 

その子は少し考えた後に、

「やっぱりちゃんと授業を受けたほうがいい」と言った。

なるほど。それは確かだ。

 

そこで普段のAさんの様子を改めて共有してみた。

Aさんなりに真面目にやっているが、Aさんの特性上やはり周囲と同じレベルで行うのは難しいと。

その子もAさんの普段の様子を思い出すと、私の話に納得していた。

 

私自身もAさんの態度は良いとは思っていない。

しかし現実として難しい部分はある。

今回の件はAさんと話すが、もう少し長い目でも見てほしいと伝えた。

色々と話して、その子は納得して去っていった。

 

その後、Aさんと話し、今回の件のことを伝えた。

やはり本人なりには、それなりにやっていたつもりではあった。

周囲の目とのギャップは常々伝えていた。

それを意識できないと、おそらく今後Aさん自身が不利益を被ることになると思うからだ。

1学期から話したこともあり、少しずつ変容しているところはある。

先は長いが、道は続いていそうである。

 

さて一連の指導を終えて、やはり自分はずるかったなと思う。

結局のところ、不公平を上手く言って、相手に飲ませたのである。

 

ではこれが間違っていたかと思えば、そうは思わない。

クラスという共同体を運営する上で、ある程度適切な指導であったと思っている。

 

昔は子供から話を聞いたら、全て自分が関わり解決しなければいけないと思っていた。

最近では、そんな強迫観念めいたものはどこかに置いてきてしまった。

 

大切なのは子供達の納得感だ。

同じクラスで関係性を作るのは、私ではない。

彼らが相互に作っていかなければいけない。

 

相互に作るのであれば、相手を理解しなければいけない。

私がすべきことは、相互理解を促すことだ。問題を積極的に解決することではない。

 

後日、その子にAさんの様子を聞いてみた。

「この前は○○していたから、いいんじゃないかな?」とのこと。

多分これ以上は聞く必要は無いと思う。

学級目標を作るのが嫌いなので、思いっきりシステマティックにした。

学級目標を作るのが嫌いだ

なぜならすぐに形骸化してしまうからだ。

 

目標を作ったはいいが、何も意味をなさない。

もちろんちゃんと運用しない自分が悪いのだが、とにかく形骸化しがちなので学級目標を作るのは嫌いだ。

ある時には学級目標を作らなかったこともあったが、全く問題なく運営できたのでやはり形骸化するくらいなら必要無いのだろう。

 

必要性は?

実際に上手い運用ができたことが無いので、学級目標の必要性自体がよく分からない。

強いて言うならば、前述の通り作らなくても普通に運営できた経験があるので、必要かと言われたら答えは「No」なのだろう。

 

ずっとそのような感じで学級経営をしてきたが、最近少し思いなおすところが出てきた。

「学級集団」という言葉がある通り、クラスは集団で動く。

学習自体は個で成り立つので、究極的には集団である必要も無いのだが、「集団」を形成することで個の学習効率も良くなり、全体としてのレベルを引き上げることが分かった。

 

要はクラス全員で協力すると、全体的に上手くいくということだ。

ならば学級経営において「集団作り」が大切になってくることは確かだろう。

 

では集団を形成するにはどうするか。

集団内での信頼関係づくりなどもそうだが、個人が集団を意識するには、集団としての目標をもたせることが手っ取り早い

となれば学級目標を作る必要が出てくる。

 

自分の中でぐるりと論理が一巡してきたが、集団作りのために学級目標を作る必要がありそうだ。

しかし目標は往々にして形骸化する。

 

それならば形骸化しないように、思いっきりシステマティックに取り組むことにする。

 

なぜ形骸化するのか

学級目標はなぜ形骸化するのか。

それは実際に運用しようとしないからだ。

 

目標を作ったはいいが、目標の振り返りをしない。作りっぱなし

そのために形骸化していき、学級目標の模造紙はいつしか壁に溶け込んだ模様になる。

 

理由のもう一つは、目標が曖昧過ぎるからだ。

だいたい「みんなで仲良く、なんでも全力で取り組む、元気なクラス」のような文言に落ち着いているケースを多く見るが、これは目標が曖昧過ぎる。

このような目標は何ら役に立たない。

 

内容は曖昧だし、振り返りもしない。

それは形骸化して当たり前だろう。

ならばこの逆を行けばいい。

 

概要

形骸化しない学級目標を作るために、目標を曖昧にせず、常に振り返れるようなシステムにする必要がある。

ということで、今年は試験的に以下のように取り組んでみた。

 

  1. 「どういうクラスにしたいか」「良いクラスとはどのようなクラスか」と子供に投げかけ、いくつか条件(目標)をピックアップする。目標を8個に絞る。
  2. 目標一つ一つに対して、その目標はどのような行動で達成できるかを更に集める。(マンダラチャート化)
  3. 8つの目標についてアンケートを取り、現状の確認と評価をする。
  4. 現状をもとに、足りない部分を補うべく、日直が毎日目標を立てる。
  5. その日の最後に振り返りをして達成できていたら、マンダラチャートの該当部分にシールを貼る。
  6. 頃合いを見て、再びアンケートを取り、8つの目標が達成しているか評価する。
  7. 以下、4~6を繰り返す。

 

各項の詳細

1 目標のピックアップ

クラス目標を作るので、まず目標を集める。

子供に「どのようなクラスにしたいか」「良いクラスとはどのようなクラスか」と投げかけておき、自分の理想のクラスの状態について考えさせる。

 

その後付箋を用い、目標にしたい文言を全体から集めて、KJ法で分類を行う。

swingroot.com

 

この時点で概ね6~8種類くらいの目標に分類する。

深ーく掘り下げなくても、「みんな仲が良い」とか「集中して勉強できる」とかそんな文言に落ち着いていく。

クラスの実態次第だが、あまりまとめ過ぎない方がいい。

全員で目標となる文言を決めても良かったが、わりと煩雑だったので、分類した時点で分類の内容に一番近い付箋の文言を取り入れた

 

2 マンダラチャート化

目標が決まったが「男女仲が良い」など曖昧なままなので、これを達成する行動基準を考える。

つまりマンダラチャート化する

u-note.me

 

これもたくさん集めるのが大変なので、クラスに目標を掲示しておき、目標を達成する行動基準を付箋で集める。

授業時間は少し使ったが、それ以外は1週間程度目標だけを掲示しておき、思いついたら付箋に書いて貼り付けるという方式をとった

 

その後、教師がある程度まとめてクラス全員で検証し、マンダラチャートを完成させた。

 

3 目標評価アンケート

次に事前のアンケートを行った。

8つの目標(今回のクラスの場合)に対して、現状どの程度達成されていると思うか、0~5の6段階でアンケートを取った。

0が全く達成できていないで、5がバッチリOKという感じだ。

 

アンケートを集計し、8つの目標について平均評価を出し、レーダーチャートにした

ja.wikipedia.org

 

レーダーチャートにすると、現在のクラスの状態が視覚化されるので、課題が明確になる。

ウチのクラスの場合は学習系の目標が低かったので、学習に対して課題感があることが分かった

 

子供としても現状が視覚化され課題がハッキリするとやる気が出るようで、授業態度が以前よりも良くなった。すげー。

 

4 毎日目標

アンケートを取るだけでも意識が変わることは分かったが、今回はストイックかつシステマティックに学級目標を運用したかったので、毎日目標を立てることにした。

 

翌日の日直を帰りに残し、翌日の目標を立てさせる。

目標は当日の朝の会で発表する。(黒板には既に掲示されている)

 

後述するが、マンダラチャートの達成した部分にはシールを貼っている。

そのためアンケートのレーダーチャートの様子とマンダラチャートのシールの状態、それから最近のクラスの様子を見て、翌日の目標を考える。

マンダラチャートの文言をそのまま使うこともあったし、少し変えて運用しやすい言葉にしていることもあった。

 

1学期の段階だと学習系に課題が見られたので、「授業前に準備をする」とか「姿勢をよくして話を聞く」とか、そういう目標が多かった。

しかし子供同士でいさかいがあった日の翌日には「人に優しく声をかける」とか、クラスの実際の様子に基づいて目標が立てられていたので、機械的でなく実態に即して運用されていたように思えた。

 

2学期以降は毎日の目標を五七五にする予定だ。

なんでって?面白いから

 

5 毎日振り返り

毎日目標は帰りの会の時に、振り返りを行う。

その日の目標を「よくできた」「できた」「もう少し」の3段階で挙手をさせ、クラス全員で評価する。

 

日直はその日の目標について自分なりの評価と理由を述べる。

最後に教員が「とてもよくできた(花丸)」「よくできた(二重丸)」「できた(丸)」「もう少し(△)」で評価と講評をする。

 

全体の評価に合わせて、掲示しているマンダラチャートの達成した部分にシールをつけていく

同じ目標の部分でも構わないと話してはいるが、現状はシールの部分は被っていない。

2学期からも続けていくと、日数的にどこかしら被ると思う。

 

6 再評価アンケート

1学期の最後にまたアンケートを行い、レーダーを作る予定。

というのも実践の最中なので、まだ1学期終わりのアンケートは実施していない。

 

前回のレーダーと比較して、自分たちが伸びた部分、悪くなった部分、変わらない部分を見つめなおすようにする

 

運用の実際と終わりに

今年の学級目標はこんな感じで運用している。

現在のところ概ね上手く進んでいるが、新しいレーダーを出した時に子供がどう反応するかが見物だ。

 

レーダーの手法だが、確か理想教育財団?の講演を聞きに行った時にやっていた手法で、「毎日目標」と「マンダラチャート」はやったことがあったので、組み合わせて思いっきりシステマティックにしてみた。

 

今後のどのようになっていくかは分からない。

もしかしたら十分に達成した目標は殿堂入り的な感じになるかもしれないし。

まだまだ研究途中である。

 

tohruyoshino.hatenablog.com

 

書写の片づけができなかった私の話

 木曜日の5,6時間目に書写の授業をした。3年生で2回目の書写の授業だ。新しい書写セットにまだまだ嬉しそうな顔をしている子供たちが、楽しそうに筆を操っている。

 今日の授業は横画の練習。めあては始筆に気をつけながら、横画を書くこと。指導はするが、筆の角度が寝てしまったり、真横に線を引っ張ったり、まだまだ未熟なところばかりだ。

 子供にとって、筆の上げ下げの感覚というのは分かりにくいものらしい。かく言う私も大学生になって、教員用の授業を受けた時に初めて習得したようなものだ。かなり意識しないと難しいものなのだろう。

 上げ下げの感覚、文字の太さに繋がる感覚だが、なかなか上手くいかない。線が細くなってしまう子供には、私が手をとって一緒に書いてみる。子供は自分の前に現れる太い線に驚きと感動を覚える。その後、自分でも書いてみるが思う通りにはいかない。それでいい。これから成長していくのだから。

 作品として仕上げるので名前も書くことになる。2回目の授業で名前の指導には至らない。もちろん、名前を指導してから文字の練習をしてもいいのだが、それは枝葉を行くような気がするので、私の好みではない。目の前に大きな文字を書きたがっている子供達がいるのだから、まずは大きく文字を書かせてあげたい。結果として、大した指導をせずに名前を書くことになるのだが、それはそれで記念になるから良いだろう。

 授業の際には、「先生が指導をしないで書いた、みんなの本当に初めての名前」を書くことになるとして話す。おそらく上手くは書けないことも先に話しておく。しかし子供達もだんだんと私への理解が進んできたようで、「それってつまり、『これからの成長と比べて楽しめ』ってことでしょ?」と返してくる。1か月と少しでこれだけの返しをしてくるのだから、素晴らしい。

 

 少し話がずれるが、教師の役割の1つは子供を成長させることだ。そのために教師は様々な手段を講じる。指導によって子供が成長したことを見られるのは、教師の何よりの楽しみだろう。しかし子供の成長が自分の指導によるものなのか、子供の自然な発育による効果なのかの判別は非常に難しい。私は、子供の成長の8割くらいは子供自身の自然成長の影響だと思っている。

 だからこそ子供自身が自分の成長を実感できる仕組みやフィードバックをする必要があると考えている。自然成長でも構わない。自身が実感できることが大切なのではないか。

 

 出来上がった作品だが、私の予想を上回る素晴らしい出来であった。巧みな始筆。力強く、なめらかな送筆。整った終筆。期待していた以上の作品が続々と仕上がる。

 名前も面白い。私が指導したことと言えば、小筆を使うこと、書き方、書く場所くらいだ。子供たちは自分なりに工夫しながら名前を書いてくる。「上手くいかなかった」と嬉しそうに話してくるので、「それでいいんだよ」と返す時間を楽しむ。上手くいかないことが楽しいのは良いことだ。

 書写の作品は面白い。出来上がった作品には、個性がよく出る。同じ文字を書いているからこそ、比べてみると、とても分かりやすい。大きな文字を書く子。細い点画になる子。文字がかすれる子。バランスが偏る子。文字には性格が出る。私が普段感じている性格とは違った性格も見える。心の底ではどんな性格が隠れているのか、毛筆には、そんなことが少し現れてくる気がする。

 

 作品が仕上がれば、後は道具の片づけである。仕上がった子から順次片づけを始める。最初の授業で指導した通り、筆や硯の墨を処理し、片づけていく。まだまだ覚えきれていないところもあるが、概ね順調に進んでいく。順調でない部分は友達に聞きたり、助けてもらったりしながら、片づけていく。上手なものだ。

 

 そう。上手なものだ。

 子供が書写の片づけをしていると、私はいつも思う。子供たちはなんと手際よく片付けていくのだろう。授業終了5分前には殆どの子が片づけを終えることができた。タイムマネジメントはまあまあ良いのではないだろうか。残りは1人だ。

 その子は道具に手をかけ、片づけている。しかしなかなか進まない。不真面目にやっている様子はない。手に取った筆をふき取り、巻いていく。巻いた筆を机に置く。そこでまず下敷きを片づけたほうが良いことに気が付く。巻いた筆をどかす。下敷きをとる。書写バックはどこか探す。見付けたバックの中を見るが、下敷きは上手く入らない。中を整理する…

 

 君なんだ。君なんだよ。私は君だった。

 私は書写の時間が好きではなかった。字が上手く書けないこともあったが、それ以上に準備や片づけが上手くできなかった。私にとって書写の片づけは煩雑の極みであった。今やるべきことは何となく分かるが、なかなか進まない。自分では不真面目にやっているつもりはない。しかし進まない。気が付くと周りは何となく片づけを終えている。

 教師になって分かった。やはり私は不器用だったのだ。多くの子供たちは煩雑ながらも、片づけを終えていく。終わらないのは私や君のような人なのだ。何故終わらないのだろう。いつも不思議に思っていた。外から見ると分かる。道具を右から左へ動かしているだけで、何も進んでいないのだ。手を動かした分だけ片づけたような気がするだけに、遅々として進まない状況に湿度の高い部屋にいるようなねっとりとした不快感だけが募っていく。君は今、そんなに感じていないようだが、心の底に溜まった澱がいつか君を苛立たせるかもしれない。

 

 私は少し特性が強い人間だ。もう少し言うと自閉傾向が高めだ。視野が狭い。色々なことを考えすぎたり、逆にのめりこみすぎたりしてしまうこともある。

 私は不器用だ。効率性を重んじるようなことを言う割に私は段取りが良くない。仕事では常にバタバタとしている。机の上は片づける習慣をつけているが、片づけが中心になり、仕事が進まない。周りを見て、なんと速やかに仕事をしているのかといつも思っている。

 

 道具が片付かない君は何をしてほしいのか。道具を片づけられなかった私は何をしてほしかったのか。助けてほしかったような気もする。でも助けはいらなかったような気もする。君を見ていても、やはり助けがほしいようには見えない。時間が欲しかったかもしれない。でも時間を意識して動いていたわけではなかった。手順の説明かな。それが一番近いような気もする。でも声をかけてほしいわけではなかった。自分でやるものだ。できなくはないのだから。今考えると、それが私のプライドだったのかもしれない。

 君はどうだろうか。声をかけてほしいのだろうか。それとも自分でやりたいのだろうか。手順書くらいは作ろうと思う。他の子にも良いだろうし。君も見るだろうか。

 私はまだ、君へどう声をかけていいか分からない。

【学校】分散登校したら理想的な教室になった【コロナ対策】

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臨時休校中の学校の様子は上の記事から。

 

分散登校の開始

6月からいよいよ学校が再開になった。2月の末から休校したので、なんと3か月ぶり。

毎年、夏休みで長期に休むことはあるけど3か月授業しなかったのは初めてだな。

 

うちの学校では午前と午後の2グループに分けて分散登校を行うことになった。

兄弟は同じグループにしてねという条件だったので、グループ分けは難航するかと思いきや、案外すんなりいって驚いた。

 

実際に登校したら、3か月ぶりにも関わらず、子供は案外普通であった。

ちゃんと登校するし、行儀よくしている。緊張も多少あったのだろう。

 

しかし登校&授業は3か月ぶり、担任としっかり向き合うのも2か月振りくらい。

そのため最初の1週間はとにかく優しく、温かい雰囲気作りを心掛けた。

黄金の3日間?知るか。非常事態じゃ。

 

時間がきつすぎる

分散登校で午前午後の2回、子供が来る。

 

児童の下校後は消毒作業を行う。

午前グループの下校時間から午後グループの登校まで、間の時間は約10分。

この間に机、蛇口、扉など指定の場所をアルコール消毒していく。

時間はかなりきつい。

 

毎日2展開する関係で休み時間も無し。

隙間時間はほぼ0。

提出物の確認や宿題の丸付けの時間が殆ど取れない。

何とか給食中に必死に確認をしている。

 

児童の健康状態を把握したいので、個別に話したかったが、その時間もとれない。

給食の時にちょくちょく話して何とか頑張って聞き取りをした。

 

とにかく時間が無い。

子供と雑談することもままならない。

時間だけはキツイ。

 

反転しよう

分散登校の関係で授業は30分で1時間授業となった

授業時間が15分削られるが、内容的には概ね網羅しなくてはいけない。

 

そのため反転授業を取り入れる

分散登校のおかげで子供に空いている時間も増えたので、家庭で進められる分は宿題として出す。

 

最初は課題ができるか心配であったが、子供もたくましいもので、ほぼ全員がちゃんと課題をやってきている。

再開から2週間たって、そろそろ平常運転に戻ろうかという雰囲気も出てきたが、このまま反転授業は続けていくつもり

学習効率が圧倒的に高くなっている。

 

人数は最高

1クラスを2グループに分けているので、授業中通常の半分しか児童はいない

 

そうなると机間指導もとにかく捗る。目が行き届く。

全ての時間が今までより圧倒的に短縮される。

児童の集中度も上がっている気がする。

 

そう考えると1クラスの限界人数ってやっぱり20人くらいなんじゃないかな

クラスの大きさ的にも非常に快適に空間を行き来できる。

隣のクラスに昨年まで不登校気味の児童がいたが、余裕で毎日来ている

どうやら人数的に落ち着くらしい。

 

グループもできるし、目は行き届くし、人数的にはここが一番いいなと思う。

 

教材研究は分担で

うちの学年では分散登校中は授業内容を全て揃えることにした。

「揃える」ことに関してはTwitterでガーガー言われていたが、個人的には特殊状況なのでクラスの個性を出すより、学年全体で動けることのメリットの方が大きいと思う。

そもそもうちの学校の分散登校システムだと各クラスの個性を出す暇が無い

 

授業内容を揃えることの一番のメリットは、教材研究を分担できることだ。

主任が国語、後輩が社会、吉野が算数と理科の教材研究をして他の人に教えている。

こうなると吉野は国語と社会のことは殆ど考えなくていいので、楽である。

 

思ったよりホワイト

なんやかんやで分散登校開始から2週間たったが、何とかなっている。

むしろ毎日定時ちょいくらいに退勤できているので、前より健全なくらいだ

 

通常登校になってくるとまた変わってくるだろうが、分散登校の知見が溜まってきたので、このまま応用していけると良いなと思っている。

 

【学校教育】テキトーな宿題ほど子供が食いついた【家庭教育】

若い頃、自分がやりたいことをやりたい放題やっていた時期があった。

その中の一つがこの宿題だ。

 

面白い宿題をやろう

当時の吉野のクラスは漢字の進行がやや速く、7月に入るころには漢字ドリルや計算ドリルなどのよ出される宿題類がすべて完了していた。

宿題が無ければ無いでいいやとは思っていたが、周りのクラスとの歩調合せであったり、何となくもったいない感じがあったので、何か面白い宿題を出そうと考えていた

 

そこで生まれたのがこの宿題である。

「一週間分の宿題量にあたるものを何か自由に行い、一週間後に提出すること」

これだけ言われても子供はイマイチぴんと来ていなかったので、確か「1週間でできる自由研究」と伝えた気がする。

 

内容としては、何をしても良い。

普通に何か学習に取り組んでも良いし、ゲームでもいいし、好きなことをやってきてと伝えた。

ただ体験・経験・工作などの宿題の場合は、得られた知見や学びを書面で提出することという条件も付けた。

 

とにかく「好きなことを1週間やって、自分の中で学びになったことをまとめておいで」ということである。

 

宿題の意図

この宿題の教育的な意図は全くない

宿題やるなら好きなことやった方が面白いよなという感覚で出している。

これもどこぞの人体実験に当たるのですかね。ふふふ。

 

1週間の中で宿題の管理も全くしていない。月曜日に出したので翌週の月曜日に持ってきてねという感じで出したはずだ。

 

教育的な意図は無いが、この発想自体は吉野の趣味や感覚から生まれている。

というのも吉野は研究が好きなのである。学会に論文を出して発表したりもしているくらい好きだ。

なので子供にも何か好きに研究をさせたかったので、こんな宿題が出来上がった。

 

完成形

1週間宿題だが途中の経過管理は全くしなかった

管理は全くしなかったが、子供たちはそれぞれちゃんと進めていたようで、途中経過を教えてくれる子もいた。

 

この期間中に違う用件で保護者に電話をしたことがあったが、「例の宿題でめっちゃデカイ工作してますよ~」なんてのも聞けた。子供達なりにコンスタントに取り組んでいたようだ。

 

翌月曜日。提出日である。

バラエティに富んでいてすごい。収拾がつかない。収拾する気も無いけど。

 

思い出せる限りでは、

  • 毎日運動に取り組み記録を伸ばす子
  • めっちゃ漢字の練習をする子
  • どでかい工作をしてくる子
  • 絵日記を書く子
  • 料理を何回もして、レシピと感想を書く子
  • 実際の野球選手とパワプロデータを比べる子
  • 何枚もの折り紙で大きな鞠を作る子

などである。

確か理科っぽい研究をしている子もいたが、具体的に何をしていたかは忘れてしまった。

 

実に面白い

こちらが想像していたものを遥かに超えて色々とやってきた。

皆で見合った後に吉野がコメントをつけて返却したが、コメントを書くのも非常に楽しかった覚えがある

 

出してみて

軽い気持ちで出した宿題であったが、想像以上に面白い結果に終わった。

子供のやっていて楽しかったようで、「またあるならやりたい」と言っていた。

吉野も子供も楽しいハッピーな宿題であった。

 

もう少しこの宿題を振り返ってみると以下のようになる。

 

まず1週間という期限が良かったと思う。

1か月とかだと長くてモチベーションを保つのが難しいし、3日だとやや短い。

1週間だと題材を悩んで、準備して、実行するというプロセスの単位時間としてちょうど良いように感じた。

 

次に題材を自由にしたこと。

実験、工作等やり方はすべて任せた。内容に関してもすべてフリーにした。

初めての試みだったので、制限をかけないことで子供のやる気を引き出せたのだろう

もし学習系に縛っていたら、ここまでのやる気は出せなかったと思う。

逆に継続してこの課題を取り組むなら、「国語に関すること」などを条件の一つとして加えると、より効率的な学びができる気がする。

 

後は子供に知見を書かせたこと。

流石にやりっぱなしだと良くないなと思って、書面などで知見や学びを書かせたが、子供にとっても自分の学習を振り返る良い機会になっていた。

運動結果を記録した子などは、「1週間でも伸びる」とか「このペースなら、これくらい頑張れば目標達成できる」など、自分のデータを振り返りながら分析もしていた

これを継続すると、生活とか総合でよく言われる学びのスパイラルが出来上がるはず。

 

終わりに

思い出したら、またやってみたくなってきたな。

 

個人的な感想としては、子供は学ぶことは嫌いではないということを改めて実感した。

大人もそうだが、好きなことをやっていいよと言われれば、継続してやりたがるのだろう。

 

ただ学びの質を上げる方法は教えてあげないといけない

今回は振り返りをすることは条件にしたが、さらに学びの質を上げるなら、何らかのフォーマットを用意したほうが良い。

いわゆるポートフォリオになるものだ。

 

枠は決まっているけど、内容はフリー。

それが一番良い形になるだろうし、そもそも世の中の研究はそうなっている

 

今回は1週間で取り組んだが、今度やる時は2週間でやってみたい。

1週間で中間報告。それを受けて2周目をどうするか決めて実施する。

2週間くらいだと期間的にもちょうど良くなる気がする。

 

最後に宿題と言えば、副校長と以前話したことが印象的に残っている。

副校長が担任だった頃、同僚と話したことで、同僚が言うには

”子供に宿題を出しなさい”と言うが、我々は『子供が出したくなる宿題』を出しているだろうか

とのことだ。

 

宿題に関しての議論は色々とあるが、我々教員にも大きな宿題が課されているようだ。

【臨時休校】臨時休校になってから、今日までぼんやりと働いていた【コロナショック】

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こんにちは、新天地

吉野は今回異動だったので、4月1日から新しい学校で働き始めた。

 

4月1日といえば、緊急事態宣言が出るのではないかと言われていた時期で、新学期は始まるのか、始業式や入学式はできるのかといった話題でもちきりであった。

新しい場所に緊張しているのに加え、さらにどうなるか分からない状態にどうしたもんかなーと変な疲労感を募らせていた。

 

異動者の紹介の後、社長からの今後の連絡があった。

 

「どうなるかは分からないが、多分休校は続くと思うから、午前の内に教材を発注して。自習できるドリルとかそういうの多めで。」とのこと。

 

なので午前中は会議などは全部予定変更して、教材の選定と発注。

後で聞いた話だと、午後から発注した学校は教材が間に合わないと言われたらしいので、社長はなかなか先見の明があるなと思っていた。

 

休校は続くよ、どこまでも

午後に社長が戻ってきて、職員への連絡。

 

臨時休校が決定。

始業式・入学式は実施し、その後は週1回程度の登校日で課題を出すようにすると。

 

個人的には妥当な線だなと思いつつ、少しホッとしてしまう。

今年の準備期間は3日しかなく結構きつかったので、少し伸びることに安心した。

 

翌日から、6日の始業式に渡すものや課題の準備に取り掛かる。

入学式の準備もあったので、バタバタと1日が終わる。

 

入学式の準備は普段6年生が手伝いに来てやっているが、登校できないので職員で全て行った。

大人だけだと非常にスムーズに進むので、毎年手伝ってもらっているけど、あれはやはり6年生のための準備なんだなと改めて実感した。

 

さて始業式に渡すものの一つに学年便りがあるが、4月1日時点ではどうなるか分からなかったので、4月2日から作り始めた。

2日から作り始めたものの、変更、変更アンド変更で結局発行するまでに6回くらい作り直すことに

この時はそれくらい状況がどんどんと変わっていた。

 

因みにこの頃吉野は前任校から持ってきていた自分のデータを校内のサーバーに入れようとしていたが上手くいかず、情報環境の荒野感に絶望してた

 

あーした 天気になーぁれ

日々、状況が変化していくので、準備はしたが入学式ができるかは分からない。

世田谷とかはこの時点で始業式・入学式が中止になっていたので、万が一と言うことはあり得る。

 

なるようになるだろうとは思っていたが、土曜日のお昼ごろに学校からメールが届く。

保護者にも向けた全校メールだが、入学式の場所が体育館から校庭になるとのこと。

 

3回くらい見なおしたけど、理解までに時間がかかった。

え、校庭で入学式…?

とりあえず月曜日に学校に行けば分かるかな…?

 

月曜日を迎え、午前中は始業式。

着任式も短く済ませるので、挨拶などは無し。

担任発表される前に並んでいる自分のクラスの子を見たが、なかなかパンチが効いた子がいたので今年も楽はさせてもらえないなと思っていた。

 

始業式後は教室に行くものの、配布物を入れるなど最低限のことだけで、さようなら。

名前くらいは覚えてねーとお願いしておく。

 

午後は入学式。

校庭に椅子を並べたり、パネルを支えにして紅白幕を張ったり、史上初の準備

合言葉は「初めてでこんだけできてれば十分だろう!」と「1年生は本当の形を見たことないから!」。

 

準備の後、午後から入学式が行われたが、想像以上につつがなく終わった。すげぇ。

外でやっても何とかなるもんだねと皆で話しながら、でももう絶対やりたくないとも話した。

 

この日の最後の打ち合わせで知ったことだが、入学式の実施要項は計5回変更があったらしい。

教員ならこの絶望感は分かるはず。

 

在宅勤務で何をする?

翌日の火曜日に出勤したが、いよいよ緊急事態宣言が発令。

それを踏まえ児童の登校日は無くなり、職員は基本的に在宅勤務に。

 

登校日に渡すはずだった手紙やドリルは、郵送にて全家庭に配布することになった。

とはいえ郵送は1回のみ、郵送できる重さは一人250gまで。

うちの学年は足したり引いたりしながら248gでフィニッシュ。

ニアピン賞もらっても良いよね。

 

以降は1週間に1回、ホームページで課題を提示していく。

でもそれは主任がやってくれるので、ラインで相談はするが、出勤の必要は無い。

郵送作業で1日だけ出勤をしたが、その後はすべて在宅勤務。

 

この時期のツイッターでは「臨時休校になっても教員は忙しいんですよ!」という書き込みが多く見られたが、吉野に関して言えば、在宅勤務になってやることが殆ど無くなってしまった

教材研究とかあるだろうと怒られるような気もするが、どの単元を何時間でできるか全くわからない状態で授業の組み立てはできない

やれなくはないけど、そんな宙ぶらりんの状態で無駄になるかもしれない教材研究をやるほど吉野は意識の高い教員ではない。許せ。

 

とりあえず異動して全く分からない土地だったので、自治体について色々と調べた。

グーグルマップで学区内の見回りもしたし。

 

前の職場の同僚達もやることが無くなってしまったらしいので、この時期はやたらとエクセルでシステムを作ったり、直したりしていた。

そう考えると、まあ働いていなくはなかったのかな?

この時期にできたのにこんなのもある。

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テレワークの到来と吉野の失敗

在宅勤務にうんざりした頃に、なんと市内のパソコンにテレワークシステムが入ると情報が流れてきた。

前の自治体では既にテレワークができていたので、こちらでできないのが残念だったのだが、これで変わらず家でも仕事ができることに。

システムが入ることになったのはコロナおかげと言うべきかな。

 

システムに繋ぐ手順書を見ながら、ぼんやりと思ったのが、この手順には間違えやすいポイントが多いなということ。

前任校でも情報関係の仕事をよくしていたので、間違えやすいポイントが感覚的に分かるようになっていた。

 

そして導入日。案の定、職員のLINEでは混乱が起きていた

因みにうちの学校では緊急事態宣言が出た時から、職員連絡のためにLINEグループが作られていた。

今も管理職からの業務連絡がちょこちょこと入る。

 

吉野も実際に接続を済ませ、色々な確認をした後、職員LINEに確認するべきポイントを列挙していく。

接続完了報告が続々と増えていく。

 

やってしまった。失敗した。

まだ目立つようなマネはしたくなかったのだ。しかも情報関係で。

 

吉野はやらかしがちなので、異動先では信頼を得るまで大人しくするつもりであった。

1年くらいは与えられた仕事を目立たずこなす予定だったのだ。

 

が、この日を境に職員の間に「お、吉野は情報関係に強そうだぞ」というのが知られてしまった

なお5月現在、職場では「情報の分かんねーことは吉野にも聞いてみよう」という風潮が生まれ始めている。どーして、こうなった…

 

テレワークができるようになり、とりあえず学級の準備を進めることにした。

詳細な名簿とか雑多な物は今のうちに作っておいた方が良いに決まっている。

管理職からは自己申告も作っておいてねと連絡が来たし。

 

とはいえ吉野の状態はこんな感じである。

 

車輪の再発明は意味が無いか?

4月末になり管理職から連絡。

自治体で授業動画を作ることになったので、作ってくれる人を募集するらしい

 

授業動画の件は各地で行われているが、民間には太刀打ちできないようなものが大量に出来上がっていることは知っていたので、やりたくはない。

今回は有志で作られるので、吉野はスルーした。

 

そもそも自治体で作るということは他の学校の教員と連絡を取らないといけない。

異動したてで校内の職員すら覚えきれてないのに、他校まで手は伸ばせない。

 

そしてどうせこの仕事は吉野のところにも、何らかの仕事が回ってくる

そんな予感がしたので、動画作りはパス。

 

この頃、政府が緊急事態宣言の延長について判断すると報道があり、自治体としても色々と動いていた。

とりあえず5月7、8日は休校延長というのは決定したので、そんなに焦ってはいなかった。

 

GWに入る直前、校長会などがあったようで、GW後に1日だけ分散で登校日を設けることになった。

職員もそれに合わせて、分散で出勤し準備を進めてほしいとのこと。

 

うちの学年は7日が分散出勤日になった。

吉野の心中としてはこんな感じであった。

 

うちの学年は3クラスなので担任3人だが、吉野以外の2人は動画作りをすることになっていた

分散登校の準備をした後に2人の動画作りの手伝いをする。

 

教員の授業動画作りは”車輪の再発明”とさんざん言われていたが、実際に作ると良いところも分かった。

あと教員のパソコン技術についても分かったので、それはまた別の記事にしようと思う。

 

出来上がった授業動画は今週から毎日配信している。

先週末から今週の始めまでは動画の編集やアプロードなどでやたらと吉野が呼ばれる場面が多く、予想通りという感じであった。自分で作らなくて正解。

 

吉野、wifi業者になる

授業動画を配信するのは良いが、家庭によっては見るインフラが無い場合がある。

そのため校内のiPadが貸し出されることになった。

もちろんネット環境も無いといけないので、それは教委からポケットwifiが来た。

 

GW直後までは副社長がこの業務を行っていたが、動画配信の件も重なりパンクしてしまったようで、吉野に泣きついてこられた。

特に断る理由も無いし、視聴覚担当なので仕事を引き受け、iPadとポケットwifi貸し出し業務を引き継ぐ。

 

当日は借りに来た保護者に簡単な使い方と接続方法を話すのだが、貸し出す台数が70台近く。

しかも密にならにように、1回の説明では1、2人しか相手にできない

 

教員スキルってこういうところでも発揮されるんだと、妙な発見をしつつ業務を終わらせる。

 

説明は吉野が全て行ったものの、他の職員も何人か手伝ってくれていた。

その人達曰く、「吉野さんがいなかったら、どうなっていたことかー」。

いやいや、絶対何とかなるから。

 

文科省はキレたけど、ごめん、タイミングが悪い


2020年5月11日 学校の情報環境整備に関する説明会【LIVE配信】

 

ところで今週の最初に出たこの動画はもう見ました?

文科省の高谷課長が今までの経緯と現状について、滅茶苦茶分かりやすくキレながら説明をしてくれていました。

高谷課長の言葉は、我が意を得たりといったところでとても心に響いた。

 

が、一方でオンライン授業をどうしようかなと迷っている自分もいる。

もし前任校であったら4月の最初の休校の時点でオンライン授業に舵取りをしたと思う。

インフラはあるし、発言力もあったしね。

 

でも今は状況がなぁ…何より気になるのは6月に多分再開するんだよね

今から準備を整えても、すぐに再開。

無駄ではないけど、ちょっと労力と結果が見合わないような気がする。

管理職とかから要請があれば、すぐにでも実施するけどね。

 

とりあえず今は6月再開に向けて、また準備だな。

 

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【教育】教員の評価観を理解すると、新任の先生に噛みつく人の心理が分かる【働き方】

先日も取り上げたが、近ごろ自分のTLで人気の先生がいる。

 

見た瞬間に思ったのは、「すげー。俺が新任の時は全然こんなこと思ってなかったなー」という感じであった。

吉野は二束三文で売られる平々凡々な教員なので、こんなに意識の高いことは考えておらず、毎日どうやって生き延びるかを必死に考えていた覚えがある。

 

ネット界隈なので、この人が本当に新任なのかはさておき、教員の業界で新任の先生に何を望んでいるのかなというのを少し考えてみた。

 

教員の仕事の優先順位

小学校教員の担任の仕事は、簡単に分けると3種類になる。

①学級 ②学年 ③学校の仕事の3種類である。

 

学級の仕事は、要は担任業。

普段の授業だったり、生活指導だったり、学級を運営するためにする仕事。

よく教員の仕事でイメージされるのも学級の仕事

 

学年の仕事は、自分の学年全体に関わる業務。

校外学習や行事の計画、学年便りの発行、会計業務とか、児童への指導というより事務的な業務が多い。

 

学校の仕事は、学校全体に関連する業務。これも、そのまんまだよ。

運動会とか行事の委員長とか、通知表の様式や時間割の調整とか、避難訓練の計画とか、どちらかと言えば直接児童に関わらない仕事が多い

 

じゃあ、この3種類の中で、学校において最も重要な業務は何か。

これの答えは学級の仕事だろう。

直接、児童に関わるので教員として疎かにしてはいけないところ。

 

じゃあ、この3種類の中で、最も優先度が高い業務は何か。

これの答えは学校の仕事

このあたりが教員以外の人や新任と、経験を積んだ教員の意識の違いがあるかもしれない。

 

学校の中で最も優先されるべき仕事は、学校の仕事

初任者の頃に先輩から言われたのが、「仕事は学校→学年→学級でやるべき。だってこれをやらないと学校が回らないから全体に迷惑がかかる。」ということ。

初任の時もこの話は納得したし、今でもそれは意識して仕事をしている。

 

評価観の違い

 

吉野は先輩から教えてもらったが、この仕事順は指導されなくてもぼんやりと分かってくる。

なので教員の中で業務的な評価ポイントは、学校の仕事を上手くしているかどうかになってくる。

 

逆に学級の仕事の優先順位はそんなに高くないため、荒れたクラスを立て直しているとか研究員とかで研究授業をたくさんやっているとか無い限り、そこまで評価は高くならない

担任同士で経営の仕方や実践について褒めたりしたりはするけどね。

 

この評価の仕方が、保護者や教員以外の人との評価観が少し違ってくるように思える。

特に保護者にとっては学級の仕事が一番だからね。当たり前だけど。

 

もっと言えば、吉野くらいの中堅どころになると、学級を通常に運営するのはごく普通のことであり、全く評価されることではなくなる。そりゃ、そうか。

 

「そんな評価のされ方は間違っている」「担任なんだから学級の仕事が最も評価されるべきだろう」という批判はよくあるが、現実的にはこうなんだよね。

 

例えば吉野は前任校では情報関係に強いからよく質問されたし、研究授業も結構やるし、行事の委員長もやった。

なので周りからの評価はそこそこ高かったけど、学級経営は上手くなかった

学級が崩れるほどでないなら、学年や学校の仕事をしている人は評価が落ち着くものだ。

  

がんばれ、新任

新任の先生もこの評価順で仕事を頑張る必要があるかと言うと、新任は全く異なる

学校が新任に求めることは、とにかく学級の仕事を完遂すること。それ以上は求めていない。

 

教員は専門業であり、いわゆるプロフェッショナルの仕事だ。免許も必要だしね。

新任であってもプロである。学級を通常通り回すことは当然業務として求められる

よく言われるのが「子供の前に立てば、新任であろうがベテランであろうが『先生』であり、そこに差は無い」というフレーズ。

 

しかし現実的に学級を普通に運営するのは死ぬほど大変である。

いつも思うんだけど、研修0で実地に放り出すってブラックそのものだよね。

因みに教育実習の経験は、現場の3日間で獲得できるレベルのことしかやれない

そもそも一番大切な学級の開き方とかやらないし。

 

そのため新任に求めることはただ一つ。1年間とにかく学級運営をやりきる

 

教員だけに限らないと思うが、新任の1年間はめちゃくちゃ長く感じる。

ゴールド・エクスペリエンス・レクイエム喰らってるんじゃないかってくらい長い

 

そして1年間やり切ると「よく潰れなかったね!」なんて褒められることも。

この業界は、それくらい割とよく人が潰れる

新任は潰れず、1年間やり切れば万事OKである。

 

評価観のギャップ

こうなると新任の先生が噛みつかれる理由がだんだんと分かってくる。

  • 教員が主に評価するのは、学年や学校など全体に関わる仕事。学級の仕事はあまり評価されない。
  • 新任が頑張るのは学級の仕事

 

新任が頑張るのは基本的に学級の仕事。なので必然的に学級に関するアピールや発信が多くなる。

しかし新任が学級の仕事についてアピールしているのを見ると、評価に値しない仕事を、すげーアピールしてイキがっている視野の狭い若者にしか見えない。

そのため「現実見ろよ」「仕事はそればかりじゃない」という指摘が来る。

 

逆に、経験がある先生が同じ発言をした場合は、「この人は優先順位とか全部踏まえた上で、こういう発言なんだな」と勝手に理解してもらえるのでヨイショが入る。

 

若者はイキろう

若者が「視野が狭い」「仕事を分かっていない」と言われるのは、どこの業界でも同じだろう。

学校も同じであるが、詳しく見るとこの業界的には評価観の違いから上記の発言につながっていく。

 

とはいえ、イキった発言をするのは若者の特権だ

経験を重ねれば、嫌でも分かるものがあるし現実と合わせなくちゃいけない部分も出てくる。

これもどの業界でも一緒だね。

 

それに死ぬほど学級のことを考えらえるのは若いうちしかない

吉野くらいになってしまうと学級のことは考えるが、学年や学校のことを考えて行動しないといけない。

そうなると学級に手が回らないことも往々にしてある。

 

仕事順を教えてくれた先輩も

「委員長とかになるとそっちの仕事が多すぎて、学級に手が回らなくなることがあるんだよね。それって本末転倒でおかしいとは思っているんだけど。」

とも話していた。

吉野もどこかおかしいとは思いつつ、現実と折り合いをつけながらやっていた。

 

ただ新任のうちは学級を頑張って運営することが、最終的に学校のためになるから、やっぱり学級経営を熱心にやって、イキると良い

まぁ、それも3年目までだけどね。