根無し草の器用貧乏

吉野には専門性が無い。

 

これまで情報関係に偏っていた関係で、専門と言える教科がない。情報教育が専門なのでは、と言われることもあるが、俺は情報教育はどこまで行っても専門足り得ないと考えている。

なぜなら小学校には「情報」という教科が無いからだ。

 

学校には色々な教育活動がある。

人権教育、性教育、キャリア教育、プログラミング教育…この中だと俺はプログラミング教育に関しては他の教員より詳しい方だが、やはり専門性があるかと言えば疑問が残る。

 

専門性は教科教育に根付いている。

昔、尊敬する副校長に言われた言葉の1つだ。当時から俺は情報関係に強く、いわゆるICTを使った実践を積み重ねていた。その時に副校長から言われたのが

「『情報』『ICT』はどこまで行っても「ツール」なんだよね。だから、どこかの教科を専門にすると良いよ」

 

当時からこの考えは納得できるものであったので、自分の中にスッと落ちてきた。その副校長自身も情報関係に明るい方であったが、社会科を専門としていた。

 

この言葉を聞いて以来、自分は何を専門にしたいのか何年間も考えてきた。大学の頃からの流れでやはり国語かなと考えつつ、結論は出ていない。

その中でひとまず得意な情報関係をズルズルと続けてきてしまった。ズルズルとは言ったが、まあ悪いとは思っていない。

 

そして現在、GIGAスクール構想が早まり、情報端末の活用が叫ばれ、その第一線にいるからこそ痛感するものがある。

俺には教科の専門性がない。

 

GIGAスクールにおける一人一台端末の活用は究極のツール論だ。

今までの感覚で言うなら、チョークや黒板、ノート指導に類するものだ。これ自体を専門としても、授業に深まりを出すことは難しい。

黒板に関しては、構造的板書の本などは増えているが、あれも根本的な教材研究がしっかりとなされているからできることだ。児童の思考を深めるためには、結局教材研究がベースとなる。

 

端末活用において、俺はかなり先頭の方にいる。

新しい活用を試みたり、実践報告をしたり、他の教員にアドバイスをしたり、研鑽を重ねている。

 

しかし最近になって、行き詰まりを感じ始めた。

理由は簡単だ。教科の深まりがある活用法をできていないからだ。子どもたちは、こちらが望むスキルを概ね身につけた。今まではスキルを身につけさせ、新しいことをし続けてきたが、それがある程度完了したのだ。ここから学習に深まりを出すには、教材を深く理解し、ツールをもって伸長させる必要がある。

 

俺には、その根本的な教材研究の素地や専門性がない。

今まで悩みつつも騙し騙し進めてきたが、いよいよ壁が出てきたようだ。ツールを研究を続けた中で、教材研究の壁に当たることは、予想されていたことではあるが、なかなかに皮肉なものだ。

 

多分、国語に足を置くのだろう。自分の生来の性質を考えれば、国語が収まりがいい。何から始めるか。

保護者は学校に何を求めるか

昔、ベテランの先生から教えられたのが、保護者は学校に何を求めているかだ。

私は保護者対応が苦手だ。いや、得意な人なんかいるのだろうか。保護者対応についての教育書が書かれるくらいだから、やはりみんな苦労しているところなのだろう。

 

巷ではモンスターペアレントという言葉が普及し、変な要求をしてくる親がいることは知られている。そうなるとガーガー言ってくる保護者をモンスター扱いするような風潮になってしまったが、学校内部の研修ではそういう話は出てこない。

むしろ研修では、保護者をモンスター化させるのは教員の対応のマズさからきていると説明されることが多い。

 

これは事例などを見ていても納得できるところはあるし、おそらく教員の世界に限ったことではないだろう。

正当な苦情を入れたときに向こうの対応が悪ければさらなる不信感を募らせるのは自然なことだ。

 

では保護者のニーズは何かと言えば、先のベテランの先生に教えられたのは以下の2つだ。

 

1つ目が子供が楽しく学校に通っていること。

2つ目が子供の学力が上がっていること。

 

以上の2点が守られているうちは、保護者は学校に文句を言わないと教えられた。

これを聞いたときは本当にそれだけなのだろうかと思いもしたが、今ではこの考えに大いに納得している。

 

まず1つ目の子供が学校に楽しく通えているかだが、これは考える余地はない。

親ならば子供の幸せを願うもので、それが満たされていないならば学校に不信感を抱く。ごく自然だ。 子供が楽しそうにしていれば安心できるだろう。

 

2つ目の学力だが、結局どんな人でも「学校は勉強するところ」と考えている。そして勉強の出来不出来が今後の人生に大きな影響を及ぼすことを、身を以って知っている。

学校の勉強なんかできなくても大丈夫と言う人もいるだろうし、それはある程度は正しいのだが、じゃあよく出来るのと出来ないのと選べるとしたらどちらにしますかと聞かれれば、おおよそ出来るを選ぶだろう。

結局、学校の勉強は大切だし出来た方が良い。

となれば、親が学校にそれを望むのもごく自然だ。

 

となると上記の2点を守れていれば殆どの親のニーズは満たすことができる。

「友達がたくさんいるかどうか」など、個別に心配ポイントはあるかもしれないが、上記が守れていれば大きなトラブルにはならない。

 

そうなると子供の学力を上げるのも結構大切になるわけで、私の場合そちらが苦慮しているのだが、それはまた別の時に書こう。

今日はこれくらいで。

ICTを使う時の心得

吉野もICTを用いた実践を何回もしているが、そういう人ほど協議会で言われる言葉がある。

それが「その実践はICTを使う必要があるか」というものだ。

 

アナログ派の人は特にこの考えの傾向が強い。今まで使わなくてもできたし、別に使う必要な無いよね、と。

それに対して確かに反対はしない。目的が達成されるなら、使っても使わなくてもどちらでも良いと思う。

 

しかし今は時代が少し変わってしまった。社会の要請として使わないことがあり得ないという時世に変わりつつある。

となると先ほどの言葉は、これから全ての教員に対して向けられることになる。

今まで吉野に対して、この言葉を向けていた人にはちょっと同情したくもなる。

 

そうは言っても何回もこの言葉を言われていれば、流石に自分の中に答えはある程度もっている。

回答はこうだ。

「我々はICTを使った時にどのようなイノベーションが起きるかを検証してる。」

 

さて先ほども言ったが、ICTを使わない、この場合は一人一台端末になるが、その選択肢は残念ながら消えている。

これから子供たちが社会に出るにあたり必要なスキルになってくるわけで、学校で一定の技能を身に着けておく必要が出るだろう。

 

もう少し俗なことを言えば、周囲の真面目な教員達は何とか端末を使い始めている中で、自分だけ我を張って使わないとすると、今度は保護者から何か言われるかもしれない。

なぜウチのクラスでは端末を用いた学習をしないのか、と。

学習効果の面からは使う必要は無いのは歴史が明らかにしているが、端末自体のスキルが身に付いていないことについて説明ができるだろうか。

この時世によって、端末スキルを身に着けることも学校に求められているのだ。

 

では、どんなことから始めればよいか。

そもそもICTやGIGAという言葉を見かけるようになったが、これが何の略称であるか知っているだろうか。

 

ICTは「information communication technology」の頭文字をとったもの。

日本語だと「情報通信技術」となる。

似たような言葉にITがあり、これは単純にCの部分が無いものだ。

 

世の中の色々な場面でITとICTという言葉が使われているが、教育場面では以前からICTと呼ばれている。それは教育にとってCの部分が切っても切れない大切なものであるからだ。

 

コミュニケーション。つまり他者とつながることである。

教育の場においては情報技術を用い、他者と交流することが期待されている。

 

次にGIGAの方だ。

これは「Global and Innovation Gateway for All」の略だ。

日本語では結構長い文言が付いているが、まとめると「多様な子供達を誰一人取り残すことなく、個別最適化された創造性を育む教育」となる。

まとめてもかなり長い、しかも高尚なお題目だ。

 

これまでに無いキーワードは「個別最適化」。

一人一台端末の最終目標はこの言葉に尽きる。しかしこの段階に辿り着くには、まだまだ研究が必要だろう、

今の段階では「個別」とか「みんなが」とか、そういうざっくりしたイメージでとらえておいた方が分かりやすい。

 

この二つの略称を踏まえると、現在の一人一台端末で目指すべき最初の地点は「全員がどうやってつながれるかな?」ということだ。

物理的な教室上でもそうだが、空間的に離れていたり、時間的にずれていてもつながることができるか。それが勝負になっている。

そこまで堅苦しく考えず、とりあえずclassroomやTeams上で皆でやり取りできるようになれれば良いのではないだろうか。

それだけでも大分今までとは違う地平が見えてくる。

 

因みにたまにICTを用いると学力が上がるかという話が出てくるが、これの答えもはっきりしている。

ICTを用いても、別に学力は上がらない。

ICTと学力が関係するなら、滅茶苦茶活用しているデンマークとかがPISA調査で断トツで上位に来るはず。逆に利活用率が断然低い日本は最下位になっていないとおかしい。

実際にはデンマークは日本より平均点が低いものの方が多い。

メンズスカートはブルーオーシャン?

趣味は何かと言われるといつも答えに困ってしまう。これと言って何かしているかと言えば何もしていないような気がする。

そんな中で人と話す中で比較的多くしていることがある。

それが漫画を読むことだ。

 

私は昔からよく漫画を読む。親がよく読んでいた影響もあるだろう。大人の今になってもよく読む。

最近はWEBコミックなどで手軽に読めるようになっているので、手に取りやすくて嬉しい。

 

その中で最近、注目している漫画が『リエゾン』だ。

児童精神科を舞台に、ヒロインの研修医・遠野志保が、院長の佐山卓らと、様々な心の病を抱える子供たちと出会い、解決策に向き合っていく。

 

内容としては上記の通りだ。子供の特性と向き合っていくあたりに職業柄共感することが多い。

さて6巻はまだ読んでいないのだが、書店で見かけた時に帯が非常に興味深いものであった。以下の通りだ。

「スカートをはきたい」と息子が言った時ー親子が直面する幼児期のLGBTQ+

なるほど、この巻はジェンダーに関することなんだな。

 

さて帯にある『「スカートを」はきたいと息子が言った時』の答えだが、個人的には簡単で「はけばいいんじゃない?」というものだ。そんなに難しく考える話でもない気がする。

 

ただ自分に子供がいたとして、上記のように言われた時を思いめぐらすと一つ懸念されることがある。

多分スカートをはいた息子はダサくなるということだ。

 

現在、メンズスカートというのは一般的でない。

となるとレディースのスカートで代用することになるが、当然男性が女性ものの服を着こなすのは難しい。

 

というか、わざわざ「スカートをはきたい」と言わせること自体が変だ。

多分、この言葉を言う子は性自認が女性ということになるんだろうけど、それはスカートは女性がはくものという考えが根底にあるからだ。

メンズスカートがあればそもそもにしてこのような言葉が出てこない。

 

そんなことをぼんやり考えながらスーパーで買い物をしていると、また面白いものが目に入ってくる。

それはスーパーの店員さんの服装だ。

 

男性の店員は上は白のポロシャツ、下は黒系のズボン。そして同色のエプロンをしている。前から見ると、エプロンはスカートとほぼ同じようなシルエットをしているが、全く違和感は無い。

この恰好をもうちょっとおしゃれにしていったら、普段着でも多分着られる。

 

つまり男性の骨格に合ったスカートという選択肢が無いのがいけない。

よく考えれば日本に洋装が輸入される前、日本人は和服を着ていたが、和服は構造的にスカートだ。日本人の男性がズボンだけを履き始めたのは歴史的にも近代以降なのでは?

 

性自認が男性でも女性でも、自分の体型に合った服というのを選びたいはずだ。性自認のことでなくても、デザイン的に女性物の方が好きな男性がいるし、男性物が好きな女性もいる。

ファッションは自由なわけだし、着たいものを着ればいい。

「スカートはきたい」の本質は、メンズスカートが無いせいで起きている。

 

https://zozo.jp/ranking/category/skirt/all-sales-men.html

ちなみにメンズスカートは無いわけではないが、まだまだこんなオシャレな形のものばかりだ。

もっとユニクロとかで買えるような雑なメンズスカートが欲しいんだよ。

一人一台端末を管理したければイズムを共有しろ

一人一台端末が来たぞ

政府のGIGAスクール構想を受けて、一人一台端末が子どもに配付された。多くの自治体が今年の1月くらいから導入され、世の中では様々な実践やらそれらをまとめた実践本が売り出されている。

私のいる自治体でも比較的早い時期からiPadが導入され、今はバリバリ使っている。私自身は情報関係に通じているところがあり、あまり困っていない。だが苦手な先生からすると、使ってはいるもののなかなか困っている姿が見られる。

 

そうなると質問もよく来るが、その中で多いのが端末をどこまで(いつ)使わせて良いかというのもだ。要は端末を使う上でのルールである。

先日、教育委員会の方から私の実践報告をしてほしいと研修に呼ばれたが、そこでの質問でも学級ではどのようなルールの下で端末を使わせているかが尋ねられた。

 

みんな、子供に今まで使わせたことが無いから、子供がどんな反応をするか分からなくて怖がっている感じがする。その結果、明確なルールを作ることで管理をして、安心感を生み出そうとしているらしい。

私の勤務校はその傾向は無い(排除した)が、後輩の勤務校では管理職がルールを作りたがるきらいがあるらしく、後輩も辟易していた。

 

ルールを作るとどうなるか

 

まず結論から言うと、ルールを作ると一人一台端末の活用は失敗する。 

「え、ルールがあっても上手くいってる学校はあるよ」と言う人もいるが、それはルールが前述の人たちが考えているようなルールではなく、ざっくりとした最低限のものだからだ。

「壊してしまったら先生にちゃんと言いましょう」くらいのルールなら良いが、「このアプリは使ってはいけません」という内容のルールは失敗する。

 

不慣れな先生たちは端末を使った逸脱行動を恐れてルールを作るらしい。しかしよく考えるとルールを設けるから、「ルール外」の行動が生まれることになる。

「学習以外では使わない」というルールを作るから休み時間や授業間の時間に使うのを咎められるし、「このアプリは使わない」というルールを作るから使ってよいかの許可を子供からいちいち質問されることになる。

 

そして教員が設けたルールが守られない時にはどうなるか。新しいルールの追加である。こうなると「このケースはOK」「あのケースはダメ」と、教員がいちいち判断しないといけなくなるし、そこから外れると子供がちょこちょこ許可を取りに来るようになるし、結局設定したケースから逸脱して指導しなくてはいけないことになるし、典型的な負のループに陥る。

 

ルールを作ってもそこから外れる行動は必ず起きるわけで、そこへ更にルールを設けても、結局いたちごっこになるので、つまり端末を管理するためのルール作りは無駄で、失敗に終わる

 

 

自制心との戦い

子供にこちらが意図しているような使い方をしてもらうには、外部から制限をかけるのではなく、内発的に行ってもらう必要がある。とどのつまり子供が自制して使えるようにならないといけない

 

では子供が自制するためにはどうするか。端末のあるべき使い方の認識を共有する必要がある。教師が端末を子供にどう使ってほしいかというイズムを共有する、悪く言えば刷り込みをする

 

吉野学級の思想(イズム)は2つである。

  • タブレット、使ってますか?使われてますか?
  • そこに学びはあるか。

この2つを子供たちと常に共有している。

 

タブレット、使ってますか?使われていますか?

ルール問題の中で他の教員からよく受ける質問の1つが「休み時間に使ってもいいものか」というものだ。

相談しにくる人の懸念としては、休み時間も端末を使ってよいことにすると、休み時間に端末漬けになってしまうことだろう。

 

結論から言えば、解禁すると最初は全員端末漬けになる。これは99%間違いない。吉野のクラスでもそうなったし、他の事例を聞いていてもそうなっている。

しかしいずれ飽きて他のことをし始める子が出てくる。全員が端末漬けになるのは、せいぜい1~2週間程度だ。 

 

子供にとって端末は物珍しく、いつも使いたくてウズウズしている。しかし物珍しさが無くなった時点で冷静に向き合い始める

冷静になってくると、前と同じように外へ遊びに行く子も出てくるし、本を読み始める子も出るし、大体以前と同じような状態へ戻っていく。もちろん遊びの選択肢の中で、端末で遊ぶ子もいるわけだが。

 

そういった一定の期間をおいても、まだ熱が冷めないような状態にある場合はそれは端末と冷静に付き合えていないと言える。これが「タブレットに使われている」状態だ。簡単に言えば依存状態だね。

 

これは自制とは程遠い姿で、教員としても明らかに望ましくないと思っている。こちらとしても子供には依存せず、使いこなしてほしい。

 

なので子供に指導するときは、大体こんな感じで伝えている。

端末は人間が豊かに暮らすために生み出した道具だ。必要ないのに端末を使ったり、別のことをしてしまうのは端末を使いこなしているとは言えない。むしろ端末に遊ばれているよ。人間だったら、必要かどうか選択したりできるようになってほしい。

端末に使われるな。使いこなせ。

 

こう伝えておくと、子供としても自分が選択して端末を使っているか、それとも何となく使いたくなって使っているか意識できるようになる。この思想が共有できれば、端末の管理に関しては大体OK。

というのも、大体望ましくない使い方をしている場合は端末に「使われている」とみなされるので、それは良くないという認識が共有ができる。色々な場面でいわゆる逸脱した行動が出ても、「使われている」という言葉で一括りに指導ができる。

 

 

そこに学びはあるか

もう一つの思想が「そこに学びはあるか」というもの。これは特に学習に関わる場面における思想。

 

授業では当然学習に関係ないことはしないことが前提だが、情報端末を使うとそのあたりの自制心が曖昧になるケースが多い。多分、教員が怖がっているのもこのケース。

授業中に関係の無いことを検索し始めたり、遊び始めたりするのではないかと思っているらしい。

 

そのため子供には特に端末を使う際には「そこに学びはあるか」という思想を強烈に伝える。自分がやっている活動が学習に関係することなのか、自分に問わせる

 

端末を毎日のように活用し、この思想をが浸透してくると、逆に授業中関係ないことをしている子は周りから白い目で見られるようになる。特に共同作業などの時に関係ないことをしていると、顰蹙ものだ。

 

自習時間などに端末を使っていいかと聞かれることがあるが、これも思想が共有できると判断が簡単で、学びがあることなら良いし、遊びになるようならダメとなる。

 

思想が規範となる

私の学級では、この2点を絶対的な思想として子供たちと共有している。

逆に言えば、この2つの思想に反する行為が”ルール違反”となり、細かいことまで決める必要が無くなるし、むしろ子供が自制して端末と向き合うことができる。

 

とはいえ、最初からこの状態というのも難しいし、段階的に使う場面を増やしていくのはもちろん良いと思うが、ルール作りで管理することは絶対やめた方が良い。

一人一台端末を管理したければ、子供に教師のイズムを共有するのが一番。

システマティックな学級目標なので、とりあえずアップデートする

 tohruyoshino.hatenablog.com

 

学級目標は往々にして形骸化する。なぜなら運用する気が無いからだ

そんな形骸化する学級目標に嫌気がさしたので、思いっきりシステマティックにしたのが上の記事である。

 

結論から言うと、この実践は非常に上手くいっていて、吉野学級の学級目標は日々バリバリに運用されている。運用していく上で、上の記事と実際には異なる点や新たな課題面も見つかったので、今回はその点について追記していく。

 

学級目標の運用の仕方

学級目標の運用の流れは以下の通りである。

  1. どんなクラスにしたいか、抽象的な目標(中目標)を集める
  2. 中目標を実現するための行動レベルの目標(小目標)を集めて、マンダラチャートにする。
  3. 中目標に関する評価のアンケートをとり、レーダーチャートにする。
  4. 日直が、小目標をもとに今日の目標を決め、朝の会で発表する。
  5. 帰りの会で今日の目標の振り返りをし、今日の評価をする。達成できていたら、マンダラチャートの該当部分にシールを貼る。
  6. 4と5を毎日繰り返しつつ、月の始めに3の評価アンケートをする。
  7. 4~6を繰り返す。

実際と違ったところ

前回も少し書いたが、1と2の段階についてはほぼ同時に行った。子供たちにとって、抽象的な目標と行動レベルの目標を分別するのが難しかったからだ。

実際には「良いクラスってどんなクラス?」と聞き、思いつく案を付箋に書かせて集めた。手法としてはKJ法になる

KJ法のやり方とコツ|アイデアをまとめる手順をわかりやすく解説 - Web活用術。

 

最終的にマンダラチャートにできれば良いので、このあたりは明確に手法に拘らなくてもよかった。

 

子供の様子

課題の設定

日直が毎日の目標を決めるため、学級目標への意識はかなり高い。マンダラチャートを拡大掲示したものを教室の後ろに貼ってあるので、それを見ながら毎日の目標を考えている。

 

長期的な目標としてはマンダラチャートの小目標に全てシールが貼れれば達成となる。そのため基本的にシールが1回貼られれば、その小目標は今後毎日目標として設定する必要な無くなる。

しかし実際には同じ小目標が再び設定されることは多い。というのも、子供たちはクラスの課題を肌感覚で理解しているため、シールを全て貼ることよりクラスの現状に合った目標を選ぶことを優先している

単にゲームのようにシールを貼ってクリアしていくというより、現実的に課題に向き合っているようだ。

 

毎日学級で生活していると、時にはダレてきて先生からお説教をされる時がある。大体、忘れ物が多い時や集中力に欠ける時などがそれにあたる。お説教をされた翌日は大体、お説教の内容を克服する目標が設定される。

単純ではあるが、子供なりにちゃんと課題感をもって生活ができている。

 

クラスを見つめ、クラスへ戻す

前述のように日々、運用していくとクラスの実態と課題感が明らかになるため、振り返りの機会が多くなる。

先程のように明確な課題がある時は、それに沿った目標が設定される。ただ特に喫緊の課題が無い時も往々にしてある。そういう時はレーダーチャートや拡大掲示のシールの数を参考にしているようだ

 

日直は前日の帰りに目標を決めていくが、「ウチのクラスは”学習”の部分がちょっと低いよね」「”自主性”の部分のシールが少なくない?」といった話し合いがされている。子供たちは日々クラスの実態を把握することができる。

また毎日の目標は短冊で後ろに掲示されているが、連続で目標を達成できている時もあれば、1週間くらい目標を達成できていない時もある。それを見て「最近、目標を達成できていないから、まず達成できそうな目標を選ぼう」ということも話していた。

 

子供はその時の状況によって毎日目標の設定を変えているし、そのたびにクラスの課題と向き合っている。そして朝の会で今日の目標を選んだ理由も話すため、クラスの中でも課題感が共有される。

集団としての課題感が強くなるため、子供たちはクラスを共同体として意識することができる。良い意味で子供たちが「うちのクラスは○○だよね」と語れているので、クラス意識は割と高い。

アップデートしよう

去年の運用を終えて

学級目標の運用という意味では、去年の実施は成功だった。形骸化せず毎日意識して活用することができた。今年度は持ち上がりクラスなので、同じ集団である。継続して運用していくためにアップデートすることにした。

それにしても”アップデート”という概念が定着したのは良いよね。「更新」とか「改善」より伝わりやすい気がする。

 

殿堂入りと廃棄

まず現在の目標でいらないものを選定した。選定は2つの基準で行った。

  • 既に目標にするまでもなく達成できている「殿堂入り」の目標
  • 何回やっても達成できない、実態と合っていない目標

各班ごとに話し合い・発表をして殿堂入りと必要ない目標を選定していく。手法がアナログで無駄に時間がかかってしまったのが失敗。

後から考えたら、Formsでアンケートを取るのが一番早かったなと後悔。その場合は、全目標の中で必要ないと思われるものを選択し、多かったものに関して再度検討という流れで良かった。

今回は、実態と合っていない目標は見当たらなかったが、殿堂入りが何個か出た。殿堂入りは別枠で掲示している。

 

目標の統合や追加

削る目標が終わったら、統合するものを考えた。あと追加する目標に関しても。追加目標に関しては、付箋にガンガン書き、貼っていく。

追加目標で特徴的だったのは「下級生に優しくする」内容が増えたこと。これは学年の始めの時に話したから、そのまま反映されたのだと思う。うーん、子供は素直。

 

その後、選定や統合を全体でやると大変そうなので、プロジェクトチームを発足した。要は実行委員なんだけど、プロジェクトチームの方がやる気が出るので、こちらの呼び名にしている。5人ほど集まったので、付箋の整理や目標文言の統合などをしてもらう。

1項目に対して行動目標の枠が8個しかないので、9個、10個あるところはプロジェクトチームと相談して削ったりした。でもこれもFormsでやればよかったし、早かったなーと後から後悔。項目ごとに行動目標を列挙して、必要な項目を選ばせれば良かった

 

完成とデータの引継ぎ

最後は担任が目標文言を打ち換え、拡大掲示を作って基本的に完成。

残る問題は、前の学年の達成度を引き継ぐかどうか。

毎日目標を達成すると、その目標にシールが貼られる。さらにその目標の項目にもシールが貼られる。例えば「友達に親切にする」という小目標を達成すると、「友達に親切にする」という部分と、中目標である「なかより・思いやり」の部分にもシールが貼られる。

そのため子供に与えた選択肢としては、以下の3つ。

  • 全部リセットする
  • 中目標のシールだけ引き継ぐ
  • 小目標・中目標のどちらのシールも引き継ぐ

これは多数決で、中目標のシールだけを引き継ぐに落ち着いた。ただし前年度と今年度でシールの色を分けるということになり、今年度の達成度は視覚化できるようになっている

 

アップデートを終えて

これでアップデート作業は終了。授業時間は2・5時間くらいでできた。1年間運用していくものだから、3時間くらいかけても良いなと思っている。

一連の流れを振り返ると、もっとFormsを使えば楽だったと思う場面が多かった。特に殿堂入りなどを考える場面はグダグダ感が溢れたから、そこはもっとスマートにできたな。

今年もどんどん運用してくぞー。

知見もたまったし、所見の書き方をまとめておく

 

所見はきらい

先日、今年最後の所見が書き終わった。管理職からのチェックはまだ通っていないので、修正はしなくてはいけないが、一仕事終えることができ安心している。

 

所見を書くのはあまり好きではない。この仕事の中でコストパフォーマンスが最も合わない物の1つである。色々な業務があるが、こちらのコストが高すぎる。それでいて、パフォーマンスに関しては、お察しの通りである。

教育関係者以外の方のために注をいれておこう。

「所見」とは、あゆみなどの成績表に書いてある教員からのコメント文のことである。

とはいえ、教員ならば所見から逃れることは難しい。個人面談に切り替えている学校などもあると聞くが、それが主流になるはもっと後だろう。それまでに幾度となく所見を書かなくてはいけない。

繰り返しやるのであれば、生産性を上げておき、仕事上のコストを減少させるのが良いだろう。そのためにも今まで得られた所見に関する知見をまとめてみる。

 

所見の内容

基本的な構造

とりあえず、通常所見についてまとめる。全体所見とか総合所見とか言い方もばらつきがあって何とも言えない。自分の勤めた学校を基準にするので、今回は一人200字程度の所見文を書くことを想定する。

 

200字程度の場合、所見に書く内容は3項目だ。長めの2項目でもいいが、3項目の方がおさまりが良い気がする。

3項目の内訳は学期によって異なる。スタンダードに考えれば、学習に関することが2つ、特活や行事に関することが1つといったところだ。学期によっては、学習・行事・他の特活などのこともある。

 

今年度は特殊なケースではあったが、とりあえず3学期とも所見は書いた。今年度の吉野の内訳は以下のようになっている。

  • 1学期・・・学習2つ 特活・課題・おまけ1つ
  • 2学期・・・学習2つ(1つは英語で固定) 行事1つ
  • 3学期・・・学習2つ(1つは道徳で固定) 特活・期待1つ

上記を見て分かる通り、吉野の勤務校はと英語と道徳は通常の所見の中に含む。英語が入っているのは中学年だからだけど。

 

詳しい中身

項目が分かったら、今度は詳しい中身についてである。

基本的には「子供の具体的な姿+それに対する価値付け」をセットで書く。

例えばこんな感じ。

国語「作文を書こう」の学習では、主語述語のつながりや段落の使い方を間違えず書くことができました(姿)。文章を書く力の高さを感じます(価値付け)。

 

特に価値付けの部分が大事になる。所見に書かれる内容ということは子供の中でも特に頑張ったり、力が伸びたりした部分であることが多い。それが子どもや保護者に伝わるような価値付けができるといい。

しかしこの価値付けが難しい

 

価値付けの方向性

価値付けを考える時は、まず書く内容がどういう観点の内容か考える必要がある。

知識技能・思考力・態度など、どういう点の力が素晴らしいのか明確にする。

上記の例文の場合は、知識技能の点だ。文章を書く技能が高い(高まった)ということを伝える文章である。

 

もし思考面を価値付けるとしたら、「発想が豊か」とか「巧みな表現をした」とかそういう言葉になる。態度面であれば「粘り強く取り組んだ」とか。協調性を価値付けるなら、そもそも「学び合って文章を書いた」とか、そういう事実が現れるはず。

 

所見を書こうと考えた時に「○○さん、あそこが良かったなー」くらいのスタートで始まることが多い。でも文章に書く前には、何が良かったのか観点に沿って明確化することで、価値付けの方向性を間違えない

因みに1番弱い価値付けが「~できました」。でも困ったら、これだって使う。

 

数字は価値につながる

ベテランの先生から教えてもらった価値付けの1つに数字を使うというものがある。数字を使うとどれくらい向上したのかなどが客観的に見ることができる。保護者としても分かりやすい指標となる。

 

一番分かりやすい例としては「○○でクラスで1番だった」だ。クラス1番であれば、その子がクラスの中でも抜きんでていたことがよく分かる。

また計算スピードなどだったら「百ます計算が○○秒早くなった。計算技能の向上が見られる」と説得力のある文を書くことができる。

 

数字を使わなくても定量的に観測できるものは価値付けをしやすい。振り返りを1文しか書けなかったのが3文書けるようになったとか、朝の支度に10分かかっていたのが5分で終わるようになったとか。

 

価値付けの文言を増やす方法

上手な所見を書くには価値付けが肝となる。ならば、価値付けの文言をたくさん知っている方が良いわけだ。価値付けの文言を増やす方法は4つ。

 

1つ目が学習指導要領を読むこと。

特に「○○できました」のような価値付けをする時は、学習指導要領の文言を参照すると成立する。体育とかでスゲーいい動きしてたんだけど、なんて表現したら良いか分からない時など、指導要領には適切な表現が載っていることが多い。

評価の観点としてもブレないので、困ったら指導要領を読むのは大切。

 

2つ目は他の人の所見を読むこと。

若い人なら先輩の所見は読ませてもらうと良い。すぐに使える文言が揃っている。ベテランの先生の所見を読むと、自分に無い視点が得られることも多い。とにかく他の人の所見というのは、自分に無い視点や文言がたくさん載っている

 

吉野は先輩から「若いうちに色々な人の所見文をもらっておけ」と教えられた。その教えを守り、ベテランの先生に「若くて未熟なもんで、ベテランの先生の所見を見本に見せてほしい」と頼み込み、何部も手に入れた。若いうちの方が頼みやすいので、早くもらうべき。

吉野は気になる人の所見文はデータなどでこっそり見るという、いやらしいことをすることもある。

 

3つ目は書籍を買ったりネットで調べること。

2つ目の理由と同じだが、書店やネットには色々な所見の見本文をまとめたものが載ってる。自分に無い視点や発想がゴロゴロ載っているので、いつも頭を抱えるなら、書き方の勉強も兼ねて買ってみるのは吉。

 

4つ目は自分の所見文を読みなおすこと。

所見を何回も書いていると、それなりに上手く書けた文章というのが毎回1つか2つくらいは生まれる。でも前に書いた内容は意外と忘れている。そのため自分の所見文を読み直してみると、わりと参考になったりする。

しかも自分が書いたものなので、リライトするのがとても簡単。感覚が理解できるからね。

 

特別活動をどうしよう

学級活動や児童会活動

学習面だけだと偏った感じになってしまう。3項目書く余裕があるなら、学習の他に特活の内容も書いた方が良い。

特活の特徴の一つは学年によって書けるものと、書けないものがあることだろう。書けないものは正確に言えば、書くことはできるが発達段階でなどの理由で避けた方が無難な内容のことだ。

 

特活に関しては、低学年なら係当番活動。中学年なら会社などの自主活動。高学年なら委員会などが書きやすい対象になる。

逆に高学年になって当番活動の内容を書いていると、ちょっと違和感を覚える。よほど自主的に考えて、合意形成などを行っていれば書くのも良いだろうけど。

 

高学年の場合は、委員会やクラブなど別の場所での活動を見落としがちになる。

委員会では日常的に真面目に取り組んでいたり、豊かな発想で解決策を提案していたりと活躍している場合もしばしばある。担任の目から離れやすい部分なので、担当の先生に聞いてみると意外な情報が出てきたりする。

 

行事の時

運動会や学芸会など大きな行事がある時は、子供も行事に向けて結構熱量が高い場合が多い。そのため所見に書きやすい内容が浮かび上がってくることが割とよくある。

特に実行委員などになっている児童は、主体性は別として活動(仕事)をしているので、とても書きやすい。

書き方は学習の時と何も変わらない。事実と価値付けをセットで書いてあげればよい。

 

後述するが、全員ができたことというのは所見として書きにくい反面、必ず達成したことでもあるので書くに値する内容にもなっていることが多い。

行事があった学期は行事の内容を含めておくと、見取りがしやすく所見業務全体のコストが下がるので、書いた方が無難である。

 

勇気をもって課題を書く

所見の中では課題を書くこともある。ただし課題に関しては、書き方が難しい。

 

先手を打って確認を

まず確認するべきことは管理職の判断である。課題を書くことを可とする管理職がいる一方で、不可にする管理職もいる。

吉野は初任校で副校長から「吉野さんは今度は課題面も書いてみると良いよ」と言われたが、別のベテランの先生からは「課題面は書くな」と言われた。ベテランの先生曰く、書面に残るものに子供の課題面を書かない方が良いとのことだ。なるほど確かに。

 

管理職とベテランの先生であれば、役職的には管理職の言葉に従うべきだ。だが今回言いたいことは、管理職の趣味によって課題を書いていいかは変わるということである。異動などで管理職が変わったら、他の人からデータを貰ったりしてその管理職の意向を確認したほうが良い。

 

課題面の話に関わらず、管理職の所見に対する趣味は把握しておいて損はない。どういう言い回しが管理職のチェックを通るのか知らないと、無駄な労力を支払う可能性がある

吉野は今年、異動初年度であるが、所見シーズンで最初にしたことは、現任校に一番長く在籍している先生の所見を見せてもらうことだ。その人の所見は管理職のチェックを最も多く通り抜けているので、それを真似て書けば基本的には大丈夫なはずだ。

 

初任者の場合、指導教官にチェックを貰うことも多い。その場合、クラス全員分を書いてからチェックを受けるのではなく、10人くらい書いた時点で一度チェックをしてもらった方が良い。自分の書き方が正しいか早い段階で確認をできると後からやり直しが少なくて済む。

逆のケースで一番酷かったのは、全部書いてからチェックをしてもらったら、書き方が良くないという理由で全部書き直しになったケースである。こんなことになったら、目も当てられない。

 

課題を書いていい時期

課題面を所見に書くのは、1学期と2学期だけ。3学期は絶対に書かない。

これは課題面を書く時の書きぶりに関係してくる。

 

課題を書く時は「○○さんはこういう所がダメです」という書き方をしてはいけない。これを保護者が読んだら、納得できる部分はあるだろうが、「じゃあ学校での指導はどうなっているんだよ」という話になってしまう。

そのため課題面を書く時は、「○○さんはこういう部分が苦手そうだから支援していくね」という風に書く

 

上記のように文章を書く場合、3学期の所見に課題面が載っている場合、担任は交代する可能性があるため誰が支援してくれるか明確でなくなる。所見を書いている本人が、言葉に責任をもてない限り、書かない方が良い。なので基本的に3学期に課題面を書くことは避ける。

 

課題を書くことのリスク

課題面と言っても子供の実態の一面であるため、書く必要があると思ったら書いても良い。

しかし課題面を書くことはリスクが伴うことも忘れてはいけない

 

吉野が課題面を書く時に気を付けていることは、その課題に対して保護者と共通理解できているかである。ある程度の共通理解ができている課題面に関してはあまりためらうことなく書く。

 所見を読んだ保護者としても、共通理解ができている課題面であれば納得がいきやすい。

書く時のイメージとしては、「○○さんは、ご存知の通り△△が苦手なので、先生と親で一緒に頑張っていこうね」という感じになる。

 

ところが共通理解ができていない課題面を書くと、保護者としては少し驚くだろう。特に保護者が認知していない課題面であると、いよいよ話がこじれる可能性がある

「家ではそんな姿ではないが、学校ではどうなっているんだ。学校側の責任ではないか」となることも考えられる。

しかも所見を渡すのは学期の最後だ。その後、長期休みに入ることが多い。いくら「これから支援していくね」と書いても、長期休みでは子供の課題面へのカバーリングは難しくなる。

 

課題面を書くことは問題は無いが、多少リスキーな面はある。伝えて問題ないかを考えてから書いた方が良い。

 

期待することを書くとハッピー 

課題とは逆に子供に期待することを書くと全体的にハッピーな所見に仕上がる

1学期や3学期は行事が少ないので、行事のことを書かない分だけ終わりの項目があまりがちになってしまう。そのため期待することを書くことがある。

 

期待することを書く時は、主に今学期(最近)でその子が伸びたなーと思うことを探している。3学期にもなると1年間を振り返りながら書くことができる。1年間のレベルで考えると、割と変化の幅が大きいので見付けやすい。

 

書く時は特に難しいことは考えず、学習などと同じように書いていく。ある程度具体的な姿を書いてから、その後に期待する価値付けの文章を書く。

様々な活動の中では、細かい部分まで丁寧に仕上げ、完成度を高めることができました。これからも粘り強く取り組む姿勢に期待しています。

見本として書いてみたが、この価値付けの文を最後に書いたことは無いかな…まぁ色々なパターンがある。

因みに見つからない時は書かない。なかなか見付けにくい子というのはいるわけで、それで無理に書いても文がよそ行きになってしまうので、わざわざ書いたりはしない。無理してまで書くものでもないし。

 

末尾のテンプレート

6年生の3学期の所見には「ご卒業おめでとうございます」という言葉を入れることが多い。卒業位のレベルになると、お祝いの文が入っていてもおかしくない。そのため特に問題にはならない。

 

では「進級おめでとうございます」という文はどうだろうか。吉野も以前書いていた時期があったが、今は書かなくなった。この文は入れるかは判断が迷うところだ。

こういうテンプレートの文は所見に入れてよいか確認をしておいた方が無難である。このテンプレートを含めて文字数の調整を行っていた場合、削除となった時の作業が面倒くさいことになる。

1学期や2学期に「次の学期も期待しています」という文章も同様である。

 

所見を集める

結局、所見業務の全ての悩みはここに行きつくのではないだろうか。

もし所見に書くべき内容が全部そろっていたら、文章を書くのはそこまでの負担ではない。料理番組で料理が簡単に出来上がるのは、材料や調味料が全てセッティングされた状態であるからだ。下ごしらえが一番面倒なんだよ。

 

吉野の先輩はかつて締め切り間近になって全く書いていない状態であった。先輩は〆切関係の仕事は遅れることは無く、今回も間に合うのかどうか尋ねてみた。

返ってきた答えは「大変だけど、2時間くらいあれば書けるから」ということであった。先輩はただ”書いていない”だけだったのだ。

 

所見を集めるためのポイントは以下の点である。

  • 何を集めるか
  • どこに集めるか
  • どうやって集めるか
  • いつ集めるか

「何を」「どこに」「どうやって」 集めるか

「何を」「どこに」「どうやって」集めるかは、それぞれかなり密接に関わっている。

 

まず一番の悩みどころである「何を」集めるかだ。

詮の無いことを言ってしまうと、子供がよく頑張ったことを書くのが基本だろう。学習や行事など目立ってよくやっていたことをピックアップすればよい。

 

しかしそれができないから困るわけである。そのため書くのが苦手という人は、まず書くための視点を列挙してみる

たとえば教科であれば、国語・算数・理科・社会・体育・図工・音楽・家庭科・英語など。

行事であれば、その学期にやるもの。運動会・学芸会・子供祭りなど。

後、日常の場面。給食・掃除・休み時間など。

 

この中でその子が得意なことや目立っていることは何かを探す。思い出せたり、当てはまったりするものがあれば、それは所見に書けることだ。

とにかくピックアップするためには視点が必要である。むしろ視点をどれだけもてるかで子供の見取りは変わってくる。視点の増やし方は上記の「価値付け文言の増やし方」を参考にしてほしい。

 

「何を」書くかが決まったら、その情報を「どこに」溜めておくかが次のポイントになる。

一番スタンダードなのは名簿状の紙だろう。この紙に児童名と視点別の表を作っておけば、表が埋まれば所見が書けることになる。

 

因みに吉野は今年からこの作業をタブレットで行っている。所見をメモする用のExcelシートを用意して、ちょこちょことそこに書き込む。

吉野の場合は「学習1」「学習2」「行事」「その他」という項目を用意している。思い出せない時はさっきの視点を思い出して、どこかに書けないかなと探してみる。

 フォーマットを用意して書き溜めていくというのは、鉄板ながら大切な作業だ

 

さて書く場所と内容が決まったら、「どうやって」書いていくかだ。

紙なら当然ペンで書くことになるし、タブレットやPCならキーボード入力であることが多い。

吉野の場合はタブレットなのでキーボードで入力するときが多いが、最近は音声入力をしている。

 

音声入力は手入力の何倍も情報を詰め込むことができる。とにかくベラベラ喋ればいいので、キーボードより遥かに簡単である。 情報さえ詰め込んでいれば、後で思い出して文章を整えることはできるので、意外に良い手段だ。

あと授業の少し空いている時間に、子供の様子を動画で撮りながらブツブツ音声を吹き込むということもしている。これは体育の時などで効く。ゲームの風景を撮りながら、技能的に優れている部分などをメモのように吹き込んでいく。

 

メモをいつ書くか

最後の問題は所見のメモをいつ書くかである。

音声入力であると授業中にもブツブツ溜めたりできるが、いつもできるわけではない。

じゃあ毎日のどこかの時間で書けるとかと言うと少し難しい。だからそこまでキツくないけど、習慣的にどこかで書く時間を取るといい。

 

吉野の場合、まず給食のスキマ時間。吉野学級の給食はわりと放任状態なので、こちらが手を出すことは殆ど無い。

ご飯を食べ終わると10分くらい時間ができる。その時間にちょっとした仕事をするのだが、その一つに所見を書く作業がある。ただ優先順位はそんなに高くないので、たまーに出てくる仕事という感じ。

 

あとノートチェックをした後に良いこと書いているなーと思った時に書くと決めている。とにかくどこかで「このタイミングで書く」という習慣を作っておくと、書かざるえなくなるので溜めやすくなる。

 

所見が見つからない時もたくさん

集めようと思っていても、見つからない時もたくさんある。全員がすんなり見つかるのなら、この作業は苦労をしないわけだ。

 

仕方ないので全員に当てはまることを何個か持っておく。その際に物が残っているものがあると良い。 国語の作文とかグループ発表とか。みんなで協力して活動したこととか。各教科で1つずつ持っていると使い回しがきくので、それぞれストックしておく。

 

とはいえ全員ができたことの価値付けは価値としてそんなに高くないので、所見の最初に書き始めるような子は避ける。まぁそういう子は全員ができている内容なんかで書き始めることは無いからいいか。

ちなみに全員ができたことの価値付けの仕方に迷ったら学習指導要領を参考にする

 

見つからない子って能力的に低いことが多いが、フツーだけど見つからないという場合もしばしばある。なんだか特徴的な部分が少ない子。

こういう時はその子のテストの結果を見たりする。テストの結果を見ると何ができていたか分かりやすいし、数値で出てくるので説得力がでやすい。漢字テストで点数が伸びたりしていると嬉しい。

顕著な数字が出てこなくても、その子が得意なことを把握しやすいので、悩んだら見てみると良い。

 

学期ごとに書くコツ 

固定されたものは、すぐに書いてしまう

道徳や中学年の外国語活動などは通常の所見の中に組み込まれることがある。しかも、2学期には外国語の所見を書きましょうと固定されることもある。

固定された時はすごい価値付けをできる可能性が低くなるため、早々に書いてしまった方が良い。道徳が固定された時は、所見に書けそうなことを振り返りで書いている子は、すぐに書いてしまっていた。

 

所見を書く時は「具体的な姿+価値付け」と述べたが、たまに「絶大な価値付け+その価値が出ていた場面を2~3個」というパターンもある。そういう時に早々に書いてしまうと他の教科との関連して書きにくくなるが、所見にそこまでのエネルギーやコストをかけたくない。なるべく早く終えられるものは終えたい。

固定化されたものは別枠の意識でさっさと書いてしまう。

 

悩ましい1学期

個人的に1番書きやすいのは1学期の所見だ。年度が変わって初めて会った子供たちなので、新発見がたくさんある。しかも1学期は子供のエネルギーも溢れていて、様々なことをする。

 

しかし1番悩むのも1学期のような気がする

理由として、まず行事が少ないことが。今時は春運動会を実施している学校も多いので、1学期に行事はあるが、まだまだ2学期に集中している学校も多い。吉野もそのタイプであった。

その場合、1学期に所見に書けるタイプの行事は少なくなる。

 

次に書く内容が自由すぎることだ。後述するが、所見は1、2、3学期でなるべく教科が被らないようにしている。そうなると1学期は完全フリーになる。逆に言えば、その子の良いところを全力で探しに行く必要がある。

目立つ子は書きやすいので特に問題は無いが、目立たない子は難易度がかなり上がってしまう。自由故にハードルが上がる。その分、書きにくくなる。

 

行事の2学期

2学期は大体、行事のことを書くことになる。別に全員書かなくてもいいと思うが、書くと決めてしまった方が仕事上は楽である。あと管理職がチェックした時に「この子は行事のことを書いていないの?」とか言い出すケースもある。これは事前に確認しておいた方がいい。

 

行事を書くと決めると所見のパターンは以下の2パターンになる。

  • 学習1 学習2 行事
  • 学習1 特活  行事 

この場合の「特活」は行事以外の特活ね。

 もし、ここに外国語や道徳の固定教科を入れるとなると、

  • 学習 固定教科 行事

このパターンしか書けなくなる。これは逆にとても楽である。学習を何か1項目見付ければ良いわけなので。

これで書くためのパターンを把握しておくというのはとても大事だというのが分かるだろう。2学期はパターンが決まりやすい学期でもあるので、何の項目を書くか確認するのがとても大事である

 

所見を書き終わると「来学期こそ、ちゃんと少しずつメモを取ろう…」と思うことが必ずあるが、その時に2学期パターンを把握しておくと良い。

 

あまりものの3学期

3学期の所見はいつも通りの大変さはあるものの、意外と書きやすい側面もある。

なぜなら3学期には書ける内容が狭まっているからだ。

 

吉野は所見を書く時に、学期ごとに異なる教科の所見を書くようにしている。例えばある子は1学期に国語を書いたら、2学期は算数、3学期は社会といったように。

 

子供にも得意不得意があるので、所見に書けそうな部分は概ね得意な部分になる。何も考えずに得意な部分を抽出すると、3学期とも同じ内容になってしまう可能性が高い。国語の作文とか体育の運動技能とかはその傾向にある。算数とかも目覚ましい活躍をする子は、1~3学期とも活躍するでしょう。なので意図的に同じ教科は避けるようにしている

 

この制約の中でどーしても同じ内容を書く子は2パターンあって、あまりにも卓越している子か全く書く内容が思いつかない子である。前者の子は同じ内容でも書く内容は充実しているはずなので、特に問題ない。問題は後者の子だ。

 

どうしても書くことが無くて、「みんなができたこと」を書かざる得ない時がある。そういう時は同じ教科でも仕方が無いので書くことにする。ただし領域か観点は絶対にずらす

国語の場合、1学期は書き単元についてだったら、2学期は話す聞く単元についてなど。

体育の場合、1学期に知識技能についてだったら、2学期は思考面など。

同じ教科内でも領域や観点がズレていれば、まぁ成立する。ただし、所見文を読むのは子供や保護者のため、そういうズラし方に気がつかないだろう。なので教科は重複しないのが吉

 

さて3学期は1,2学期に書かなかった教科と制約を設けると、視点探しはとても楽である。

1,2学期で国語、算数、理科と書いていたら、3学期は社会で探せばいい。そうなると所見のことだけを考えるなら、ノートなどを見る力点も変わってくる。社会で書くと決めた子がすこーしでも良さそうなことを書いていたら、すぐ所見行きになる。フツーのことでもとりあえずピックアップして書いておく。

 

授業もどの子を注目すればよいか明白になる。国語の授業なら、この子とあの子。算数なら…となってくる。こうなると所見の内容探しのハードルはぐっと下がる。

因みにこの手法は教科数が少ない低学年だとちょっと難しい。低学年の時もなるべく異なるようにしているが、それでも国語や算数の内容に偏ることは多い。

 

所見の質?それって美味しいの?

こういう書き方をしていると、当然大した成果でなくも所見として書かれるので、全体的な質としては低下する。

うん。だから、何?

 

最初に述べた通り所見作業というのは、教員の仕事の中で最もコストパフォーマンスの低いものの1つだ。こちらが書く労力は膨大にも関わらず、読むのは一瞬。所見で教育効果を上げるのは滅茶苦茶難しい。コストパフォーマンスで言うなら、所見書くより電話一本の方がとても高い。

だから所見そのもの質を求めていない。教育効果などを気にするなら、別のところで頑張る。電話しろ。

 

所見を書く前などのエトセトラ 

書く前の心構え 

毎学期書いているくせに、1番最初に書く子は筆がブレて上手い文を書けないことがある。逆に1番最後に書く子は、慣れてきて文の整え方とかが上手くなっている。毎学期書いてるけど、忘れるんだよね

だから所見を書き始める前に、前回の所見を流し見すると文章の構成や書き方を思い出せて良い。吉野は管理職から指導が入った所見を紙ベースで残しているので、それを見るようにしている。そうすると、書き方を思い出すのと同時に管理職の趣味も思い出すことができる。前回、指導が入ったところを思い出して、こういやって書くんだったなーと確認する。

 

所見の蓄積、財産化

せっかく苦労して書いたので所見文はちゃんと残して財産とする。

子供の名前を抜いて文章を残しておくだけでも良いが、可能であれば価値付け文言とか観点ごとに分けておくのが良い

 

所見を蓄積するExcelを作り、そこに学年ごとのシートを作成する。その中で教科を縦軸、観点を横軸にした表を作っておき、そこに溜めていく。そうすると次回に生かしやすい。

そこまでしなくても、とにかく同じ学年の内容というのは使い回しがききやすいので要保存。

 

所見をどこから書くか

吉野は一番最初に所見を書く時、指導教官の先生から「所見は書きやすい子から書け!間違っても出席番号順なんかに書くなよ!」と言われ、今もそれを守っている。

別の先輩は「俺は出席番号で書いていくよー」とも言っていたので、人によって書き方はまちまちなようだ。

こういう問題は宗教化しやすいので答えは無いが、個人的に一つ確定的と思われることがある。それはモチベーションを下げる書き順は避けるべきだということ。

 

所見はモチベーションとの勝負でもある。モチベーション高く書いている人は少数派だろう。僅かにしかない燃料を騙し騙し使いながら書ききるのが普通だろう。だからモチベーションを下げるのは悪手だ

 

吉野は所見の進行度をヤッホイ指数(後述)で管理している。パーセンテージ管理なので、どこから書いても良いし、途中までしか書いていなくても進行しているのが分かる。以前は書き終わった人数で管理している時もあったが、それだと途中までの子がカウントされずモチベーションが下がるケースがあったので、今は下がりにくいヤッホイ指数に切り替えた。

どこから書いても良いが、モチベーションを下げてはいけない。

 

所見を書くための技術とシステム

文章技術

所見は文章で提出するので、適切な文章を書けないといけない。当たり前のようでこれが意外と難しいらしい。以前、ある主任の先生が若手に対して文章の書き方の指導をしているのを見て、「そうか。ああいった指導を受けるケースもあるのだな」と驚いたことがある。

かく言う吉野は、手前味噌になるが、所見の文章は「読みやすい」と言われることの方が多い。やったぜ。

 

とりあえず、すぐに使える決まりとして「一文の中に主語述語は2つまで」である

まず文は、主語と述語が1つずつある単文が基本となる。

今日はとても晴れている。

単文がこう集まると、

今日はとても晴れている。洗濯物がよく乾く。花粉がすごく付く。

1つの文にまとめたくなる。

今日はとても晴れているので、洗濯物がよく乾くが、花粉がすごく付く。

でも、この文は主語述語が3つ入ってる(3つの単文が合わさっている)ので、やや長い。「一文の中に主語述語は2つまで」の決まりを使うと、

今日はとても晴れているので、洗濯物がよく乾く。でも花粉がすごく付く。

今日はとても晴れている。そのため洗濯物がよく乾くが、花粉がすごく付く。 

 という形になる。この場合は1つ目の文章の方がまとまりが良いかな。

 

これを意識するだけで、文はやたらと長くならずにまとまりが出るようになる。小学校の高学年~高校生などで文章が長ーくなってしまう子がいるが、そういう子にも教えてあげると良い。

この決まりを使うと強制で文を切らなくてはならないため、文同士を頑張って繋ぐ必要がある。そのために接続詞のマスターが必要なので、ますます文章スキルが磨かれる。一石二鳥。

 

細かい文章スキルはあるけど、後はこれを読もう。

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あと、これ。

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言葉に迷ったら類語辞典

所見を書いていると、その子にぴったり合うような言葉見つからないことがしばしばある。そういう時は類語辞典を使う

類語辞典・シソーラス・対義語 - Weblio辞書

 

例えば所見でよく使う言葉「すすんで」。

これの類語は以下の通りだ。

先して能動的に・能動的な・率先した・積極的な・積極的に・自ら・自分で考えて・主体となって・主体になって・進んで・自ら進んで・率先して動く・自発的に・主体的に・自律的に・自律して・アクティブに・活動的に

ニュアンスが少し違うが似た意味の言葉がたくさん出てくる。所見で使えそうな言葉がある。

探しているうちに語彙も少しずつ増えてくるので、迷ったら類語辞典

 

文字数を数えている…よね? 

今時、所見の文字数を数えていない人っているのだろうか。希少種のような気がするが、どうなんだろう。

文字の数え方は色々あるが一番簡単なのはエクセルのLEN関数だろう

 

=LEN(文字を数えてほしいセル)

こんな感じですぐに文字数を数えてくれるので、数えていない人はすぐに実装すべき。

 

ヤッホイ指数を実装して、モチベーションを保つ

所見を書き終わった人数と進行度(ヤッホイ指数)を見られるようにしておくと、作業のモチベーションを保ちやすくなる。

 

「所見ヤッホイ指数」の実装の仕方はこちら。さる先生のを少し改良して、全員基準の文字数まで満たしたら100%になるようにした。 

tohruyoshino.hatenablog.com

 

書き終わった人数の出し方だが、人数など何かを数えたいときはCOUNT関数とその仲間たちを使う。この場合は「もし基準の文字数を超えていたら数えて」という命令をしたいので、COUNTIF関数が使える。

=COUNTIF(調べる範囲,>=200)

多分こんな感じ。

 

見直しと置換

所見を書き終わった時に、単元名が間違っていたとか表記便覧的に違ったというケースがある。そういう時は一括で変えたいため置換機能をつかう。

置換機能とは、文字通り選択した文字列を別の文字列に変更する機能である。エクセルでホームタブの右の方にあるが、ショートカットキーの方が速い。「Ctrl+H」ですぐに出せる

「”ちかん”だから”H”なんだよ~」というクソみたいな定番の覚え方がある。

 

例えば表記便覧では「きづく」は「気づく」ではなく「気付く」と表記するらしい。こういう”他にも間違えているかもな”というケースの場合、置換機能を使った方がいい。 

 

 

そして要録へ

常体敬体問題と現実

要録の所見を書く時に話題になるのが、常体敬体問題である。あゆみの時は保護者向けなので敬体の文章を書くが、要録では常体に直すというものである。

どこぞの噂では要録所見も敬体でいいらしい。規定は無いから常体に直す必要は無いとかなんとか。常体に直す作業というのは、本当に生産性の無い無駄の極みだ。直さなくていいなら、直さない。

 

ところが現場ではそうもいかない。現実には常体に直してねという指示が飛び交っている。ここで「敬体に直さなくていいですよ!」と強硬に主張しても良いが、学校の方針と違うことをすると周りに敵を作りかねない。それは賢い方法ではない。

このあたりの権限を握っているのは教務主任なので、教務主任に水面下で方針の修正をお願いしつつ、とりあえず要録用マクロで対応するのが現実的だ。というかそうしている。

 

マクロと辞書作り

最初に実施したのはロマネスコ先生のシートを応用したものだ。詳細はこちら。

tohruyoshino.hatenablog.com

これは 関数だけでできるという面では良かったが、その関数が煩雑過ぎたのであまり好きになれなかった。マクロを使った方が良いなと思った。

 

そのため次がこちら。これは方法は書いていないので、正直読まなくてもいい。

tohruyoshino.hatenablog.com

 

最終的にマクロのコードが書いてるのがこちら。

tohruyoshino.hatenablog.com

Replace関数という置換機能を使って、辞書に登録された文字を探して置換するコードである。実装の際に参考にどうぞ。もし使いたかったら、コメントなりTwitterにリプなりください。 

 

よくある運用上の注意

こういうシステムを作ると便利な反面、根本的な問題の解決が埋もれることがある。今回の常体敬体問題も最も良い解決策は常体に直さないこと。システムを使って楽するのは代替手段だ。

「吉野さんが折角作ってくれたシステムがあることだし、常体に直しても…」という流れになることがある。これは良くない。

そのため根本的な解決が望めそうな時は、システムを作った張本人が真っ先にシステムを捨てるのが大事だ。あるいは捨てると主張すること。とにかくサンクコストを増やしてはいけない。 

 

所見は必要ない?

最近は所見が無くなり、面談に代わるケースも増えている。

吉野の所属校でも文字数は減ったが、微妙な減り具合だったので、疑問に思って校長に聞いてみたところ、興味深い話が出てきた。

 

上記の話から分かる通り、要録を見越しての文字数削減だったようだ。

所見はやっぱり嫌い

ここまで書いてみて分かったが、所見を書くのはやっぱり嫌いだ。なんでって教育効果が薄い気がするから。せめて個人面談に切り替えるとか、1年に1回だけとかに変えてほしい。でも現実は書かざる得ないわけだから、こんな感じでもっと楽しようよ

 

校長の話から分かる通り、要録を変更するのは相当に難しいこともあり、その点を踏まえれば最低限の所見を書くのはアリだと考えている。

しかも140文字程度であれば、わりと小手先の技術で書きあげちゃうことができるので、そんなに大変でもない。

とはいえ、未だに文字数が多いところや教育効果が薄いことには変わりは無いから、やっぱりもっと楽に書こう。

参考

ヤッホイ指数の件とかさる先生のnoteを参考にしているので。「具体→価値付け」の話は出ているが、吉野はこの話は指導教官から教えてもらった。一般的な考え方ということかな。

note.com

 

 

さるゲーは新規性が何も無い退屈な本だった

嘘です。タイトルは釣りです。とても面白かったです。

 

私はさる先生の話をZOOMやらクラブハウスやら色々なところで聞いていた。

「さるゲー」はそれらの話をまとめた内容だったので、その意味で私にとっては新規性は少なかった。だってさる先生が今までちょこちょこと話してたし。

ただ私にとってはそうだが、これからの教育を考える上で大切な1冊になると確信している。

 

この先はさるゲーを読んで、思ったことをつらつらと書いていこう。

 

「観のアップデート」はこれからの時代の必須スキル

さるゲーの1番の主張は「様々な観をアップデートせよ」ということだ。

この点に関しては私も賛成だ。

 

では今まで教員が或いは教育がアップデートしていなかったかといえば、そんなことはない。

よく「昭和から変わらない教育」と言われるが、昭和の頃と比べたらかなりの内容が変わっている。

 

例えば生活科や総合、外国語といった新しい教科は導入されたし、学習指導要領が変わるたびに指導法も変化している。

その意味では今の教育を昭和と変わらないかと言うのは、現在の教育を知らなすぎる

 

しかしそれらのアップデートはver.4.1がver4.2になるような、小規模なアップデートだ。

今回はいよいよver4.0からver5.0になるように根本的な変化が起きようとしている

我々はその変化に対応しないといけない。

 

ちなみに時代のアップデートに失敗した例が、先日の森元総理の発言だろう。

現代の感覚と離れているから、あの発言が出てしまう。

でも80歳になった時、自分も時代に合わせてアップデートできているかは自信がないけどね。

 

そういえばうちの校長や副校長が、以前吉野の授業を見にきた。

タブレットの活用を提示する意味もあったので、結構アクロバットな授業をしたが、好意的な感想をもってくれた。

むしろ「吉野さんの授業を見て、我々の授業観も変えていかなくちゃいけないよね」とまで言ってくれた。

 

やはり「観のアップデート」はこれからの時代の必須事項だろう。

あと「筋のアップデート」も必須スキルっぽい(らいざ氏曰く)

 

「投資」は1番簡単な自分への投資

本の中では「投資をすることで経済観を獲得しよう」という話が出ていた。

投資は経済を考える上で1番簡単な学習方法だ。これは間違いない。

 

吉野は数年前から投資をしている。現在は積み立てNISAをはじめ、インデックス投資をしている。

 

投資を始める前だが現実のお金をかけるのが怖かったので、トレダビというアプリからスタートした。

いざスタートしてみると思ったのが、どの株を買えば良いんだ?ということ。

 

ゲームとはいえ現実の練習だから、やるからには得をしたい。

そしたら値上がりする株を買えば良いのだが、じゃあどの株が値上がりするのか。

有名な大企業かなとも思ったが、別に有名だから株が値上がりしているわけではない。

じゃあ値上がりってなんでするんだ?

株を一つ買うだけでも自分が経済について何も知らないことを思い知らされた

 

そんなわけで本を買ったり、ネットで調べたりして投資を始める。

そのため日経平均株価を確認することになるが、株価の変動理由が分からない。

調べると経済的理由もあるが、株価の変動は政治的な理由も大きい。

となると政治のチェックもしないといけない

 

投資を始めると経済・政治など日頃のニュースを追いかける習慣がつく。

しかも自分の金をかけている分ちゃんと真剣になれる。

だから経済観をアップデートするのに投資は1番手っ取り早い

 

「優れ力」をいかに伸ばすか

今までは知識技能を中心とする「優れ力」を伸ばす教育が行われてきたが、これからの時代は「異なり力」に大切になる。

「優れ力」で勝負することはこの先難しいから、知識技能はさっさと身につけたほうが良い。

 

まさしくその通りなのだが、個人的に悩みどころがある。

それは最低限の「優れ力」、つまり知識技能をいかに定着させるかという点である。

 

知識技能をさっさと身につけて、思考力に全振りするってそんなに新しい考えではないと思うんだよね。

「ふわりと8割くらいの知識を長期的に脳内に残留させること」が、現時点で難しいような気がしている。知識のフックをかけたいけど、フックが壊れてるんじゃね。

 

思考に全振りできない原因として、最低限の知識技能が身に付いていないということがある気がする。

逆説的だが、思考に全振りしたければ最低限の知識技能を習得させる技術を教員がもたないといけない。

 

「異なり力」は横井軍平に学ぶ

昔、売れるゲームについて話した時に、ポケモンは「収集」と「対戦(育成)」の2つの要素があったから人気になったんだろうなと思った。

既存のもの同士でもかけ算をすると新しい物が生まれることは結構よくあること。

 

「優れ力」は足し算だからレッドオーシャンになりやすい。

でも「異なり力」はかけ算だから、他と競合しにくくなる。

この場合のかけ算の順序はどちらからかけても良いと思います(炎上回避用)

 

ゲーム業界で「優れ力」を追求しているのがソニーではないか。

とにかくグラフィックとか技術重視の方向へ向く。

確かに新しい技術とかはすごいと思うけど、ユーザーがそれを望んでいるかというとちょっと怪しい。PS4からPS5は確かに進化しているけど、多くのユーザーからしたら正直誤差の範囲ではないか。

 

その点、任天堂はわりと「異なり力」方面の開発をしている。

技術もあるけど前面に押し出している感じではない。

リングフィットアドベンチャーとか「異なり力」の結晶でしょ。

 

利益とかはソニーの方が良かった点もあるが、ソフトを見ているといつも息切れ感がするのがソニーの方。

「優れ力」で勝負するって多分しんどいんだろうなと思う

 

ゲーム話の最後になるが、横井軍平の言葉に「枯れた技術の水平思考」がある。

これは既存の技術を使って既存のものとは別の使い方をすること 。

枯れた技術を使う必要があるかは分からないが、水平思考が問われることは間違いない。

さるゲーでも水平読書の話が出ていたが、”水平”というのは一つのキーワードになるだろう

 

クラウチングスタートは「異なり力」か?

さるゲーの中で一つだけ納得できないのはクラウチングスタートの件である。

「過去の成功の延長線上に答えが続いている訳ではなく、それを否定して異なる方法を模索した結果のイノベーション」というものは確かにあるし、これから子供たちの芽を摘まないために必要な視点だ。

でもクラウチングスタートの例はそのイノベーションに当てはまるかは疑問が残る。

 

さるゲーでも取り上げらている広告の写真を見ると、他の選手はスタンディングだが全員腰を曲げて、やや前傾姿勢になっている。

経験的に分かると思うが、スタートダッシュしようと思ったら体は前傾姿勢になり、低姿勢化していく

どんどん低姿勢になっていけば、いずれは体が支えきれない。そしたら手を着いて支えたらよいのではないかと考える。

つまりクラウチングスタートは究極の低姿勢化の中で生まれた形なのではないか。

個人的にはこれを「優れ力の極致」と呼んでいる。

 

現状を否定して生まれたイノベーションというより、現状を収斂していった先に生まれた「異なり」という方が正しいような気がする。

「手で支えよう」という発想が現状を否定していると解釈すると、結局同じにはなるが。

 

イノベーションの多くは現状と異なる方法を模索することだが、個人的には現状を凝縮した先にもある種の「異なり」が生まれると思う

 

カムバック 寺子屋スタイル

教員になった頃から憧れていたのが、寺子屋のあの絵である。

吉野はそのまま”寺子屋スタイル”と呼んでいたが、子供が好きに学んで、何か分からないことがあったりすると先生のところにやってくる、あの形である。

 

さるゲーでも紹介されていたように、寺子屋スタイルは自然な学びであり、我々は今からそこへ回帰しなければいけないだろう。

寺子屋の第一歩として…とりあえず机と椅子をやめて、ローテーブルにする(笑)?

保護者会でお土産をあげる話

 「説明会は時間の無駄」

最近、職場の後輩が「新入生保護者説明会」に向けて資料の作成をしている。

 

「新入生保護者説明会」は文字の通り、来年度から入学する児童の保護者に向けての説明会である。

小学校に入るまでにする手続きや準備しておく物などについて説明をする。

 

入学に際して必要なものは色々とあり、資料も多岐に渡る。そのため資料の準備は思いのほか面倒な作業だ。

今週の終わりが説明会なので、後輩の仕事もいよいよピークを迎えるころである。

 

ところでTwitterなどを見ていると、この説明会に関しては様々な意見がある。

よく見かけるのは資料を見れば分かることだから、行くだけ時間の無駄というものである。

 

今年などはコロナの関係で資料を手渡しで終わりという所もあり、そういう体験をしてしまうと今までの説明会は何だったのかと思わざるえないところがある。

資料は学校ホームページに掲示する。説明したいことはYoutubeにでもあげとく。それでも成立するだろう。

この説明会を、忙しい保護者達をわざわざ呼んで開催することの意義が問われている。

 

今日の「お土産」は…?

この説明会以外にも、学校はしばしば保護者を呼ぶことがある。

そう。保護者会である

 

年間で4,5回保護者を呼ぶことになるが、吉野はとにかく保護者会が苦手だ。

何を話せば良いか分からないのだ。

資料を説明するのだが、説明している自分が一番「読めばわかるよね」と思っているのだから仕様もない

 

そのため吉野が保護者会の時に特に意識していることがある。

それは「お土産」をもたせることである。

とにかく保護者に「あ、保護者会に来て良かった」と欠片でも思って帰ってもらうようにしている。

 

そんなことを考えて何年も経ち、行きついた先は子供の動画だ

普段の授業の様子を撮影しておき、保護者会で流す。

保護者も参観などで子供の様子を見ているが、もちろん参観と普段の姿は違う。

なので学校での素の子どもの状態が見られるのだ。

 

保護者は楽しいし、時間もつぶせるしで一石二鳥である。

これまでで一番効果がある方法だと思っている。

 

因みに動画の編集などはしていないが、流す動画の選別は当然している。

子供がほどほど素の姿で、きゃいきゃい楽しそうに学習をしており、担任もフレンドリーな様子で、保護者に安心感をもたせるような動画だけを流している。当たり前だろ。

 

何が「お土産」になる?

では新入生への説明会での「お土産」は何になるのだろうか。

 

新入生保護者説明会は、あくまで説明会であり、必要な情報を十分に伝えることが目的である。

そのため入学までの事務的な話ばかりになるし、それを外すことは難しい。

 

問題は事務的な話ほど資料を見ればよいという結果になることだ。

とはいえ、小粋なジョークを混ぜる場でもない。講演会でも無いしね。

つまり単純に有用な話をする必要がある

 

「必要」と「知っている」は全く別

じゃあ単純に有用な話とは何だろうか。

非常にハードルが高い気がするが。

 

吉野が思うに、例えば子供が学校で貰ってくるプリントの整理術とかではないだろうか。

 

学校は紙社会だ。今後デジタルが普及し、紙は少なくなってくるだろう。

しかし紙が無くなることは無いし、情報が減ることも無い。

それらをしっかりと整理する必要がある。

 

それに付随して、子供が家で手紙を出せるようになるために躾け方とか、宿題をするために習慣作りの方法とか、そういった情報を提供するのが良いのではないか。

 

世の中の人は、教員が思うほど教育に関して知らないことが多い。

教員をやっていて、ついつい勘違いしてしまうのだが、子供を産めば確かに教育者になるが、教育者が教育に詳しいかは全く別問題だということだ。

 

教員は当然UDへの視点などをもっていたり、発達段階や子供の認知などを理解していたりするが、保護者がみんな、そういう視点や知識をもっているわけではない。

特に物の管理方法などは教えられることも無いので、独学でやっている人が殆どなのではないだろうか。

 

そのため「子どもが学校に通うと家庭で起こることFAQ」みたいなものを伝えるのが一番有用なのではないかと思う。

 

保護者も教育する時代

この職業をやっていると、課題が見られる児童の保護者と面談をすることがある。

その時に「あ、この保護者にはもっと細かく話をしてケアしてあげないと、子供への関わり方は変わらないな」と思うケースがよくある。

 

昔、クラスに物の管理を始め日常生活能力がボロボロの子がいた。トラブルも多くなり、いよいよ困ってきた。

その時に以前にその子を担任をしていた先輩から「吉野さん、あの家庭は親を呼んで、親の定期メンテナンスしないとダメだよ」と言われた。

トラブルが大きくなり保護者に話す段階になって、ようやく親から子への目が光り、子供が改善されるが、それがだんだんと杜撰なって元の状態になるのだと。

 

課題を抱える子はそもそも保護者の教育能力が低い場合が往々にしてある。

教育能力が低いから、課題が発露すると言ってもいいかもしれない。

 

現代の子どもは、自分に関わってくれる人間が極めて限定的である。親と教員、あと少しといったところだ。

そのため教員もそうだが、親の教育力が大きな比重を占めてくる

そのため子供を変えたければ、親もセットで教育をする必要がある。

 

正直に言ってしまうと面倒臭いことこの上ないが、子供のためには仕方がない。

 

 

結局オンラインでいいのでは?

前述のような説明も加えると、保護者としては新しい知見が得らえる可能性が高いので、来る意味が増えるだろう。

しかしその内容も資料化してしまえば、結局、説明会に来る必要は無いのではと言われてしまうと、全くその通りである。

 

こうなるといよいよ堂々巡りの様相を呈してくるが、実は資料化には根本的な問題がある。

それは資料化した時に保護者がそれらをきっちりと読み、内容を理解し、要点を把握していくれるかということである。

 

 

世はまさに大音読時代

「資料を配れば読んでくれる」と思っているならば、それは幻想だ。

意識が高い人材に囲まれた場所であるならまだしも、教員に関してはそれは当てはまらない。

 

吉野はここ数年、何か行事の委員長をしている。

行事というのは「例年通り」や「暗黙の了解」で進んでいる部分があったり、属人化している業務があったりして、資料が存在しない業務というのが多々ある。

 

吉野はそういった明文化されていない状態が許せず、委員長をやるたびに既存の資料を整頓し、足りないと思われる部分を大量に補充してきた。

そのため例年通りだけど資料的に増えた点や変更点なども多くなる。

 

全て話すと大変なので、職員会議で提案する時は前年度までと同じ部分は飛ばし、加筆や変更した部分だけを説明するようにした

その結果どうなったかと言えば、「アレはどうした」「これはどうなっている」と事あるごとに質問されるようになったのだ。 

質問の度に丁寧に答えるようにしていたが、これらの解答の9割は「それ、提案資料に載ってます」で済むものであった。

 

資料になっているからといって、読んでくれるとは限らない。

というか、全然読んでくれないのだ。

職員会議が大音読大会と呼ばれてしまう背景には、資料を読まない人の存在があるだろう。

まぁ資料をきっちり揃えれば大丈夫と考えるのは、ちょっと”人”への理解が足りないと言わざる得ない

 

説明会に来させる負荷

その点、説明会に来てもらうと、最低限押さえてほしい情報をぼんやりとでも伝えることができる。

少なくとも資料の必ず読むべき場所と読み飛ばして良さそうな場所の確認ができる。

 

資料を貰い必要な部分を理解して読める優秀な人に説明会は不要だろう。ただ保護者の中にはそうではない人も混ざっている。

伝達する側からすると、資料を渡してハイ終わりという不確定要素が多いやり方より、最低ラインが保証される説明会というやり方の方が非効率ではあるが、ベターな選択となる

書いていて思ったのが、これってスゲー「公立学校の教育」っぽいよね。皮肉だな。

 

オンライン化は諦めてはいけない

ベターかもしれないが、音読大会に価値があるかと言ったら、低いことは否めない。

必要性が低ければ、やはり無駄と分類して、辞めることは検討すべきだ。

 

また逆に考えるならば、説明会を開いているから、資料を真面目に読もうとしない人も現れるだろう。

説明会という「甘やかし」をせずに資料だけボンと渡されたら、流石に読み始めるかもしれない。

この点は…体感的には半々だとは思うが。

 

まぁ先ほど「親にも教育が必要な場合がある」と言ったばかりだから、これも教育になるかな。

 

「分からない」時に誰に聞くか。

先輩なので

吉野もほどほどに社会人をやっているので、職場には後輩というものがいる。

たまには後輩から助けを求められることがあるわけで、「どうしたらいいでしょう?」という質問をちょこちょこ受ける。

そんな時吉野は決まって、「どうしたらいいと思う?」と尋ね返す

 

これにはそんなに深い理由は無い。

一番の理由を言うならば、吉野は自分の意見をもたない人がそんなに好きではないからだ。

 

吉野の思考

吉野は人に質問するのが苦手な人間だ。

何というか気恥ずかしいというか、まぁ不必要なプライドが高いのだろう。

今では自分で訓練したので、ある程度人に聞いたり頼ったりということができる。

 

ただ質問するのが苦手だったため、何とか自分で解決しようとする癖がついた。

思い込みで行動し失敗してしまうこともあったが、とにかく自分で解決できる方法を考え行動してきた。

そんな思考の人間なので、自然と相手の考えを聞くために「どうしたらいいと思う?」と問い返すようになった。

 

2台目の掃除機を求めていた

先日、興味深い記事を見付けた。

わたしが好きなライター「しんざき」さんの記事だ。

blog.tinect.jp

 

この記事のしんざきさんの恩師S先生は以下のように述べている。

「けど、アカデミズムの技法を学ぶ上では、質問の仕方は覚えておいた方がいい」

そういう前置きの上で教えてくれたのが、

「質問は、二台目の掃除機を買いにいくつもりでしろ」

 

これは一台目の掃除機(自分の思考過程)を用意することで、質問を相対化しなさいということだ。

吉野がやっていた行為はこれに近い気がする。

 

先輩との違い

吉野は質問に対して相変わらず尋ね返していたわけだが、ある日吉野の後輩への尋ね返しを見ていた先輩が「あ、俺は素直に教えちゃうかな~」と話したのだ。

 

先輩曰く、

  • 職業柄、人に教えるのは好き
  • なので聞かれたら嬉しくなって教えたい
  • 相手もまぁ困って来ていると思うし

とのことであった。

なるほど。とても納得できる。

 

そして先輩は続けて

「単純なアドバイスとか欲しくなったら俺のところに来れば良いし、自分の考えを検証してもらいたいなら吉野さんの方に行くのが良いんじゃないかな」

と言った。

 

普通は分からないから聞く

先程のしんざきさんの記事でも、

もちろん、分からないうちはまず「分からない」を表明すること自体が難事ですので、そのハードルを可能な限り下げることは前提として(考えてみると、S先生も最初に「分からない」と表明出来たこと自体を褒めてくれていました)。

その上で、「どんなあてずっぽうでもいいから、まずは何かしらアプローチをしてみて。

そうすれば、「それが何でダメだったのか」というとっかかりが出来るから」と教えています。

これが最初から出来る人って、実はすごーーく少ないんですよ。

と書かれている通り、そもそも「分からない」と表明すること自体難しい。

さらに難しいのは「あてずっぽうでもいいからアプローチする」という点だ。

 

本当に素人だとあてずっぽうもあてずっぽうになるし、上記はあてずっぽうと言いながら「ある程度考えられること」か「すこーしでも知識があること」を前提としているのではないか。

 

つまり吉野がやっていたのは「その質問に関する教科書見付けて、読んできて。その上で分かんないとこ聞いてね」という行為に近いのではないか。これはしんどい。

それに対して先輩がしていたのは「その質問は、この教科書を読むと良いんだよー」ということに近いだろう。

 

吉野の反省と質問者の心得

こう考えると吉野の問い返しはハードな面もある。

質問者が教科書を求めてきているところに「自分で見つけておいで」というのは酷な話である。

相手が何を求めて吉野の所へ来ているかをもう少し考えて答えた方が良いだろう。

 

一方で、先輩の言葉である

「単純なアドバイスとか欲しくなったら俺のところに来れば良いし、自分の考えを検証してもらいたいなら吉野さんの方に行くのが良いんじゃないかな」

というのは質問者の心得の真理なのではないか。

 

仮に腹案がある状態で先輩のところに行っても、自分の考えとそぐわないアイディアをもらうだけで何もならない。吉野のところへ来れば、自分の案の検証ができる。

 

もちろん先輩のところに行き「○○について考えていて~」と話し出せば、同じ状況は作り出せるであろう。

しかし相手がどれくらいのスタンスや厳しさで自分の考えについて検証してくれるかは分からない。

以前、後輩から雑誌に投稿する原稿について添削を頼まれたことがある。これは吉野が「ほどほどにダメ出しをしてくれる」のを期待していたからであろう。

 

質問者は自分の質問に有効に答えてくれるのは誰なのかというのを考えた方が良い。

そのためには常に相手がどのような答えをくれているかというのを見極める必要がある。